頭脳循環を加速する若手研究者戦略的海外派遣プログラム | 若手研究者派遣

頭脳循環を加速する若手研究者戦略的海外派遣プログラム~EU枠内外におけるトランスローカルな都市ネットワークに基づく合同生活圏の再構築

若手研究者派遣

派遣報告若手研究者派遣に戻る

月度報告書(2014年12月度)有田豊

有田豊


12月に入り、ナターレで賑わうボローニャの街ではプレゼントと思しき品々を手にした人の往来が増え、マッジョーレ広場に隣接する市場メㇽカード・ディ・メッツォ Mercato di Mezzo は食材を調達する多くの買い物客でにぎわっていた(クリスマス・マーケットなどの様子については、同月の原田亜希子氏の報告書を参照)

【ネットゥーノ広場の大型クリスマスツリー(装飾済):斜塔へのオマージュなのか、少しだけ傾いている】
 

今月は、南イタリアのカラブリア州コゼンツァ県にある人口300名程度の小さな町「グアルディア・ピエモンテーゼ」Guardia Piemontese へ調査に赴いた。南イタリアという地域にも拘わらず、この町ではオック語(ピエモンテ方言)が住民たちの公用語として話されている。なぜこのような状況が生まれたのか、それを知るには中世ヴァルド派史を紐解く必要があるだろう。

1266年、フランス王ルイ8世の息子であり、かつプロヴァンス伯だったシャルル・ダンジュー Charles d'Anjou (イタリア語ではカルロ1世 Carlo I)がシチリア王に即位、南イタリア地域を支配するようになった。1282年3月30日に起こった住民放棄「シチリアの晩鐘事件」Vespri sicilianiに象徴されるように、シャルルの統治は現地の民衆には歓迎されるものではなかったため、彼はプロヴァンス伯領から大勢の臣民を南イタリア地域に移住させ、自身の統治しやすい環境を整備した。移住者たちの中には当時ピエモンテに住んでいたヴァルド派信者たちも含まれており、彼らは入植した土地で新たなヴァルド派コミュニティを作り始めた。これがグアルディア・ピエモンテーゼの起源であり、13世紀末頃のことである。

ちなみに、「グアルディア・ピエモンテーゼ」という名の由来は、当地が山の上にあって周囲の見張り(イタリア語:Guardia、オック語:Gàrdia)に適していたこと、そこへピエモンテから来た人 Piemontese が住みついたことにある。ヴァルド派信者たちはプロヴァンスからの臣民共々オック語を母語としていたため、グアルディア・ピエモンテーゼでも自然とオック語が共通語になり、南イタリアに「オック語文化圏」が誕生するきっかけとなった。

【オック語文化圏を示す地図 Carta de l’Occitania:
グアルディア・ピエモンテーゼ役場発行の広報誌に掲載されていたもので、右下部に南イタリア地域が示されている】


時は移って16世紀、ドイツおよびスイスで宗教改革運動が発生し、1532年にはヴァルド派もこれに参加、プロテスタントとして活動するようになる。これに対して「対抗宗教改革」政策を打ち出したカトリック教会は、総本山のヴァチカンが地理的にプロテスタントの土地(スイスとカラブリア)に挟まれていることを危惧し、カラブリアのヴァルド派コミュニティの方を殲滅することにした。1561年6月5日、カトリック教会が派遣した十字軍の手により、グアルディア・ピエモンテーゼに立て篭もっていたヴァルド派信者たちは悉く虐殺されてしまう。

こうして南イタリアのヴァルド派コミュニティは壊滅、僅かに生き残った信者たちはカトリックへの改宗を強要され、厳重な監視体制下に置かれるようになった。オック語での会話も禁止されたのだが、当地の住民はこれ以外の言語を話せなかったため、結局この地域ではオック語が話され続けることとなり、今なおオック語文化圏としての形を保っている。オック語の研究に長年携わっている名古屋市立大学の佐野直子准教授が、著書 Una lenga en chamin : Viatge d’una Japonesa dins las Valadas occitanas en Itàlia(邦題『途上の言語―イタリア・オクシタン谷への旅』, Chambra d’Òc, 2008)で「南イタリアのカラブリア地方に、オクシタン語が話されている孤立したコムーネがある」(p.27)と述べているのだが、おそらくこのコムーネはグアルディア・ピエモンテーゼのことを指していると思われる。

【グアルディア・ピエモンテーゼに残る、中世期の見張りの塔】

【塔の高さからティレニア海を臨む。この日は晴れていたので、シチリア島まで見渡すことができた。
眼下に見えるのは、海沿いの街マリーナMarina】

現在のグアルディア・ピエモンテーゼは、ヴァルド派の教会はおろか、信者も全くいない土地である。ただ、ヴァルド派がいなくなっても、オック語のあるところヴァルド派ありなのか、ヴァルド派の歴史的記憶を再構築・保存する運動が80年代に起こり、以後今日に至るまでその試みは継続的に行われているらしい。

その中心となるのが、今回訪問したグアルディア・ピエモンテーゼのヴァルド派文化センター「ジャン・ルイージ・パスカーレ」 Centro Culturale Valdese “Gian Luigi Pascale” di Guardia Piemonteseである。トッレ・ペッリーチェでお世話になった図書館司書のマルコー氏から、当文化センターで働くスタッフの一人フィオレンツォ・トゥンディス Fiorenzo Tundis 氏を紹介してもらい、さらに彼の同僚であるダニエラ・シャンマレッラ Daniela Sciammarrella 氏も交えて、現在のグアルディア・ピエモンテーゼがどのような場所なのかを実際に見聞してきた。

ヴァルド派の谷のそれと比べ、グアルディア・ピエモンテーゼのヴァルド派文化センターは非常に小さなものだった。内部には博物館 Museo Valdese と巡礼宿 Foresteria Valdese が設置されており、巡礼宿は訪問者が宿泊できるよう整えられているが、博物館の方は未だ完成しておらず、現在も工事を続けている状態だという。今回、幸いにも工事中の博物館の中に入れていただくことができた。博物館は全部で4つのセクションに分かれており、ピエモンテのヴァルド派史、カラブリアのヴァルド派史、オック語史、世界の宗教、に関する情報が展示される予定らしい。内部にはヴァルド派に関する歴史的遺物の様々なレプリカが設置されていたのだが、中でも博物館を一歩入ったところに、これまでヴァルド派の谷(アングローニャ)で何度も目にしてきた「シャンフォランの記念碑」が置かれていたことには驚きを隠せなかった。数あるヴァルド派の記念碑の中でシャンフォランが選ばれたのは、この記念碑が示唆する出来事が、それだけヴァルド派にとって重要と認識されているからだと思われる。

【グアルディア・ピエモンテーゼのヴァルド派文化センター:
1561年のカラブリアにおけるヴァルド派虐殺から450周年を記念し、2011年に開館した】

【ヴァルド派博物館内部で見かけた「シャンフォランの記念碑」のレプリカ】

ヴァルド派文化センターは、「流血の門」(伊:Porta del sangue、オ:Pòrta dal sang)なる中世の遺構に隣接して建っている。グアルディア・ピエモンテーゼの玄関口であるこの門からは、1561年の虐殺時にヴァルド派信者の血が大量に流れ出たようで、その記憶に基づいて「流血の門」と呼ばれるようになった。ちなみに、門の手前にある広場には「大虐殺広場」(伊:Piazza della strage、オ:Piaça de la strage)という名前がついており、これらの血なまぐさい名称は、過去のヴァルド派の惨劇を今に伝えているようである。

【流血の門 Porta del Sangue / Pòrta dal sang】


流血の門をくぐった先にあるグアルディア・ピエモンテーゼの町では、各通りや広場にヴァルド派関連の名称がつけられているのを多く目にした。ヴァルド派通り(伊:Via dei Valdesi、オ:Via dei Valdès)、ピエトロ・ヴァルド広場(伊:Piazza Pietro Valdo、オ:Piaça Pietro Valdo)、トッレ・ペッリーチェ通り(伊:Via Torre Pellice、オ:Via La Tor)、バルバ通り(伊:Via dei Barba、オ:Via dei Barbe)など、それぞれ標識はイタリア語とオック語の二言語で表記され、ヴァルド派の谷で見たのと同じ光景がよみがえる。

そんな中、町の中心部に大きな岩の塊が置いてあるのが、ふと目に入った。トゥンディス氏曰く、これはピエモンテのヴァルド派の谷から運ばれてきた岩なのだとか。グアルディア・ピエモンテーゼとトッレ・ペッリーチェは1985年に姉妹都市提携を結んでおり、両者の間には緊密な交流関係がある。ただ、この岩がグアルディア・ピエモンテーゼに運ばれてきたのは1975年なので、実際には提携以前から交流があったと考えるのが自然であろう。ちなみに岩の表面には、二つの年代――1561年(虐殺の年)と1975年(運ばれてきた年)――と、「あなたがたの切り出された岩を思い見よ」CONSIDERATE LA ROCCIA DA CUI FOSTE TRATTI というイザヤ書(第51章1節)の一文がイタリア語で書かれてあった。

【イタリア語とオック語の二言語で表記された標識】


【ペッリーチェ谷から運ばれてきた岩 Roccia di Val Pellice:台座には、1561年の虐殺時に殉教した信者たちの名前が刻まれている】


町を歩いていた時、オック語で雑談をする一組のご年配の方々と出会った。こちらが「Buongiorno」(こんにちは)とイタリア語で挨拶すると、オック語での会話が止まり、「Buongiorno」とイタリア語での反応が返ってくる。報告者はオック語が話せないため、敢えてイタリア語で自己紹介をしたのだが、問題なく理解してもらえた。ここに住む人たちは、オック語とイタリア語の二言語話者だということを改めて認識させられる一件だった。

さらにトゥンディス氏の計らいでグアルディア・ピエモンテーゼの役場を訪れ、町長のヴィンチェンツォ・ロッケッティ氏 Vincenzo Rocchettiと面会する機会にも恵まれた。突然の訪問にも拘わらず笑顔で迎えて下さり、さらに役場が発行している現地の歴史を記したパンフレット(オック語、イタリア語、英語の三言語併記)をいただくことができた。町長自ら筆をとったというそれは、ここでしか入手できない貴重な資料であるため、ぜひ今後の研究に有効活用したいところである。

【グアルディア・ピエモンテーゼは、トッレ・ペッリーチェと同様に質素な家が立ち並んでおり、
清貧を是とした中世ヴァルド派の思想を体現しているかのようだった】


南イタリアでの調査からボローニャに戻ったのも束の間、続いてはフィレンツェ大学Università degli studi di Firenzeで12月11~13日の3日間にわたって開催された研究会 "Nuove prospettive degli studi italiani sulla Riforma protestante e i movimenti ereticali nell’età moderna"(近代における異端運動とプロテスタントの宗教改革に関するイタリアの諸研究の新たなる視座)に参加した。

当研究会は、1日目に La Riforma protestante in Italia(イタリアにおけるプロテスタントの宗教改革)、2日目に Dall’Italia all’Europa(イタリアからヨーロッパへ)、3日目に Nuove prospettive storiografiche(歴史記述の新たなる視座)と日替わりでテーマが用意されており、報告者にとってはどれも非常に興味深いものである。近代、特に16世紀のプロテスタントは、1598年にナントの勅令によって市民権を得るまでカトリック教会から「異端」と同じ類の存在として扱われる傾向にあり、様々な迫害を受けていた。もちろんヴァルド派も例にもれず、その関係か初日のプログラムの中に「ヴァルド派とカルヴァン派」Tra Valdismi e Calvinismo なるテーマの発表が含まれていたので、期待に胸を膨らませつつ会場へと足を運んだ。

【発表会初日の会場となったフィレンツェ大学の大教室 Aula Magna】


会場となるフィレンツェ大学に来るのは今回が初めてで、構内の作りはおろか、知人が誰もいないという状況だったが、会場に着いて早々トリノ大学Università degli studi di Torino のディーノ・カルパネット教授 Prof. Dino Carpanetto に声をかけられた。近代史を研究しているカルパネット教授は、今夏トッレ・ペッリーチェのヴァルド派図書館で1ヵ月近く机を並べて共に研究に励んだ間柄で、報告者の研究にも力を貸して下さった。さらに驚くべきは会場にマルコー氏の姿があったことであり、わざわざトッレ・ペッリーチェからフィレンツェまでやって来るとは思っていなかったので、図らずも嬉しい再会を果たすことができた。

そして、肝心のヴァルド派関連の発表。タイトルから推察するに、ヴァルド派とカルヴァン派の関係についての話かと思いきや、実際は中世から近代にかけて変化した「ヴァルド派の呼称」についての話だった。このテーマには報告者も興味があるので、発表者と少し話をしてみることにした。発表者であるアルフォンソ・トルトーラ教授 Prof. Alfonso Tortora はサレルノ大学 Università degli studi di Salerno で中世史、特にこのヴァルド派の呼称について研究しているという。研究会の間、教授は何かと懇意にして下さり、サレルノ大学にもご招待いただいたので、いつか機会を見つけて教授の務める大学を訪れたいと思っている。さらに研究会3日目には、発表者の一人で、ローマのヴァルド派神学校で教鞭をとるパオロ・リッカ教授 Prof. Paolo Riccaと話をする機会を得た。報告者がヴァルド派を研究している旨を告げると満足そうに目を細め、ローマに来た折にはヴァルド派神学校内を案内すると申し出て下さった。

【発表会2日目・3日目の会場となった元・ヴァルド派神学校の大教室 Aula Magna】


基本的に宗教改革といえばドイツのルター派やスイスのカルヴァン派が取り上げられ、かくいう報告者自身もそれらの国々を背景とした宗教改革史を学んできた。しかし、今回は「イタリアの宗教改革」ということで、これまでにない新しい知識を多く吸収できたように思う。発表を通して、全く知らない人名、場所、出来事にも多く出会えたので、自分の無知ぶりを恥ずかしく思うと同時に、もっと努力しなければと気持ちを改めさせられたのも良い機会だった。そして、発表者の方々がI Valdesi(伊:ヴァルド派)というタームを口にする頻度がとにかく高いことに驚かされた。これは宗教改革という近代の宗教運動の中で、ヴァルド派の位置づけが決して低いものでないことを意味していると思われる。12世紀から活動しているヴァルド派は、数あるプロテスタント諸派の中でも中世(宗教改革以前)という文脈において「異端」の扱いを受けた経験のある数少ない例であるため、プロテスタント前史を語る上では、決して切り離せない存在なのかもしれない。

【フィレンツェでは1498年5月23日にドミニコ会士ジローラモ・サヴォナローラ Girolamo Savonarola が異端者として処刑された。
現在のシニョリーア広場 Piazza della Signoria には、ネプチューンの噴水の前に、彼が処刑された場所であることを示す碑板が埋め込まれている】


【サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂 
Cattedrale di Santa Maria del Fiore前の大型クリスマスツリー:夜になると青い光でライトアップされる】
 

ボローニャに戻ってからは、上記南イタリアでの調査結果とフィレンツェでの研究会参加についてムッツァレッリ教授に報告し、先月の指導時に課題として課された「来年のヴァルド派研究協会での発表構想」を提出してきた。来月の指導日までに目を通し、コメントを下さるとのことである。
2015/01/13 15:00