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月度報告書(2013年4月度)木村容子

木村容子

今月もマリア・ジュゼッピーナ・ムッザレッリMaria Giuseppina Muzzarelli教授(ボローニャ大学・中世史)から研究上の助言をいただきながら、ボローニャ大学の大学図書館等で、中世説教に関する先行研究や刊行史料の文献複写を先月に引き続きおこなった。    

4月10日には、先月の報告書で紹介した、ルッビアーニ没後100年記念連続講演会の最終回に参加してきた(写真1)。ヴェネツィアのIuav大学のグイド・ズッコーニGuido Zucconi教授による講演で、タイトルは「イタリア統一前後における祖国の記念碑の歴史と修復La storia e il restauro dei monumenti patri e prima e dopo l’Unità d’Italia: casi」。統一前後の時期において、諸都市がどのように「中世」を含め、都市アイデンティティの創造(捏造)に歴史を利用したのかという趣旨で、ヴェネツィアの事例、とくに19世紀のトルコ人商館の修復と、当時のヴェネツィアにおけるオリエントへの政治的・経済的関心との関係を中心に話がなされた。


写真1:アルフォンソ・ルッビアーニ没後100年記念講演会、第3回

未刊行史料の調査として、今月はミラノのアンブロジアーナ図書館Biblioteca Ambrosianaで15世紀の説教史料を調査した(写真2)。図書館の名前はミラノの守護聖人である4世紀のミラノ司教聖アンブロシウスに因む。17世紀初頭に枢機卿フェデリーコ・ボッローメオFederico Borromeoによって設立されたアンブロジアーナ図書館は、西欧で一般に公開された図書館としては最初期の事例に属する(1509年)。
 

写真2:ミラノ、アンブロジアーナ図書館内部

図書館と同じ建物にアンブロジアーナ絵画館Pinacoteca Ambrosianaも併設されており、筆者も図書館での説教史料の調査を終えてから絵画館を訪れた。筆者が絵画館を訪れた際には、常設展と同じ部屋で聖書に関する特別展が開催中であった(“Il grande alfabeto dell’umanità”、2013年6月30日まで。以下、各聖書の出典・引用はIl grande alfabeto dell’umanità, a cura di Andrea Gianni, Milano, 2013を参照)。この特別展では、たとえば6世紀のシリア語のペシタ訳旧約聖書(B 21 inf., Milano, Biblioteca Ambrosiana)といった、3世紀以降に作製された、ギリシア語、ヘブライ語、コプト語の聖書、あるいはアラビア語とラテン語のバイリンガル聖書などの写本や印刷本を目にすることができた。

なかでも興味深かったのは、15世紀に制作された次の2点のインキュナブラである。1点目は、1471年10月にヴェネツィアで印刷されたマレルビ聖書(INC. 1412, Milano, Biblioteca Ambrosiana. Pubblicazione: Venezia, Adamo da Ambergau, 17 ottobre 1471)。これは後述の同年8月にヴェネツィアで出版されていたマレルビ聖書の部分的な複製である。初の全イタリア語俗語の聖書であるマレルビ聖書は、カマルフドリ会修道士ニッコロ・マレルビNicolo Marerbi(またはマレルミMalermi)によって俗語化されたもので、マレルビがヴェネツィア出身であったことからか、俗語訳にはヴェネト地方の語彙が多くみられる。初版のなかでマレルビは、フランチェスコ会士ロレンツォ・ダ・ヴェネツィアに宛てた書簡という形式をとりながら、「読み手の満足とさらなる慰め」を認め、「男女、年齢の別なく、すべての者にあまねく」聖書のテキストを提供すべく「一語一語俗語化した」ことを記している。前述の10月に印刷された版を含め、マレルビ聖書はその後16世紀半ばにかけて多くの版を重ねることになる。

2点目は、初めてヘブライ語で全体が印刷された聖書(1488年)の小型版で、1494年にユダヤ人印刷者ゲルショム・ソンチーノGershom Soncinoによってブレッシャで印刷されたもの(INC. 500, Milano, Biblioteca Ambrosiana. Pubblicazione: Brescia, Gershom ben Moshe Soncino, 24/11/1493)。ソンチーノ一族は15世紀末から16世紀はじめにかけてイタリア半島で活動したユダヤ人印刷業者であり、その呼び名は彼らがドイツのスピーラSpiraからイタリアのSoncinoソンチーノに逃れてきたことに由来する。上記の1493年の聖書の奥付には、次のように書かれている。「私Rabbi Mosèの息子Gershomは[...]誰もが昼も夜も携帯できるように、[ヘブライ語聖書の]24の書を小型版で印刷することに決めた。それについて瞑想し、トーラーなしで散策することなく、床につくときも、起床するときも、昼も夜もそれを携えて読むことのできるように。」なおマルティン・ルターも旧約のドイツ語訳のために、ソンチーノの1494年ブレッシャ印刷のヘブライ語聖書を利用している。

15世紀に関しては、ほかにも、ウルビーノ公フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロFederico da Montefeltroやフェッラーラ公ボルソ・デステBorso d’Esteといった君主のために制作された、豪華な彩色の施された大型のラテン語聖書のファクシミリ版などが展示されていた(フェデリーコの聖書Urb. lat. 1-2, Città di Vaticano, Biblioteca Apostolica Vaticana. Ed. Franco Cosimo Panini, Modena 2003. ボルソの聖書Mss. Lat. 422 e Lat. 423, Milano Archivio Storico Civico e Biblioteca Trivulziana. Ed. Franco Cosimo Panini, Modena, 1996.)。本のサイズや頁数からすると、これらの聖書は携帯用ではなく、日常的に決まった場所に置かれて使用されていたと考えられる(たとえばフェデリーコの聖書のサイズは44.2×59.6 cm)。

以上、ラテン語を知らない幅広い層を対象として印刷された俗語聖書、君主のために贅を尽くして制作されたラテン語の大型聖書、そしてユダヤ人ソンチーノが「誰もが携帯できるように」出版したヘブライ語小型聖書は、それぞれ異なる言語(イタリア語俗語・ラテン語・ヘブライ語)で書かれ、異なる読み手・使用法が想定されていた。その一方で、いずれも15世紀後半のイタリアで制作され、聖職者ではなく、俗人を主な対象としていたという共通点も認められる。こうした聖書のヴァリエーションから窺える俗人の存在とその多様性は、ヨーロッパ規模での活版印刷と聖書翻訳の大きな動きのなかに位置付けられるべきだが、中世末期のイタリアの政治的・宗教的状況をも色濃く反映しているように筆者には感じられた。

余談ながら、アンブロジアーナ図書館・絵画館が誇る、レオナルド・ダ・ヴィンチの『音楽家の肖像』と『アトランティコ手稿』の一部などが、現在日本で公開中である(『レオナルド・ダ・ヴィンチ展―天才の肖像』東京都美術館、~2013年6月30日)。
2013/05/20 14:12