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月度報告書(2013年7月度)前田充洋

前田充洋


7月度は夏期ゼメスターが終了する月である。大学内も教授室前でSprachstundeの順番を待つ学生であふれている。教授や講師の各部屋のドアにはSprachstundeを申し込む用紙が貼ってあるが、学期末になると、申請の書き込みが急増している。試験やレポート提出前に教員に学生が「相談」したい気持は日本でもドイツでもそれほど変わらないということであろうか。

かくいう私も、7月初頭は先月度から進めているエップル教授のゼミナールでおこなう報告準備に追われていた。報告日は7月8日である。そのためその前の週の水曜日(7月3日)には、研究内容とその進捗具合について記述したテキストをエップル教授とゼミに参加する学生に送付しなくてはならない。友人に「テキストが一通りできたらドイツ語を添削してほしい」と伝えておいたのだが初稿ができたのは7月1日になってからで、友人にも少し急がせてしまうことになった。同日に友人と私のデスクで落ち合い、内容の確認や文章のコロケーションにいたるまで添削してもらった。おかげで、3日の夜にはテキストを何とか送付することができた。

ゼミ当日は、報告するにあたって最初になぜこのテーマにいきついたのかを簡単に説明した。これまでの研究の中心がクルップ社とドイツ海軍の関係を製品の価格の交渉を除き穴にしてみてきたが、その結果をふまえつつ視点を広範にするためにクルップ社の製品輸出と他国との交渉に着目すること、とくにいまだ着目されていない日本との関係に焦点をあてることを簡単に述べた。それが終わると様々な角度から質問を受けた。「なぜ日本なのか?」「なぜこの時代(19-20世紀転換期)なのか?」「枠組みとする理論はこれでよいのか?」などである。さらに具体的な内容についても質問や指摘を受けた。日本と中国における工業製品売上を上昇させるためにおこなわれた、ドイツ工業製品にかんするプロパガンダについて触れたのだが、そのプロパガンダの内容や成果の評価についてである。
報告終了後、エップル教授の好意でゼミに参加した学生たちの質問をメールでもいただくことができた。質問への回答にはドイツ語の技量もあって不十分なものもあり、何人かとは改めてメールで「質疑応答」をおこなった。

7月度はコロキウムにかんしては、以下のものに参加した。

  • Frank, Wolff, Die Mauergesellschaft: Die deutsch-deutsche Migration als politische Gesellschaftsgeschichte, 1961-1989. (7月5日)
  • Jim, Connolly, Reconnecting Middletown: Locating an Iconic American Small City in the Age of Globalization. (7月12日)
  • Youssef, Cassis, The Financial Revolution of the late 20th century: Global financial markets after Bretton Woods. (7月15日)

興味をひかれたのはゼメスター終了講演をかねたカシス・ヨーゼフ氏の報告である。内容としてはブレトン・ウッズ協定以降の市場取引にかんするものであるが、取引の証券化の促進と市場へのその影響が中心であった。取引をあつかう以上、その分野の「経済」や市場への影響は必ずと言ってよいほど考慮しなくてはならない。対象とする時期は異なっていても、国家間の協定や取引が市場にあたえた影響をどのように考察するのかを参照することができた有益な講演であった。


写真1:講演をおこなうカシス・ヨーゼフ氏

講演終了後は恒例となっているゼメスター終了のパーティーが開催された。今回は夏期ということで、屋外での開催であった。私も参加し研究や生活についての会話に華を咲かせることができた。


写真2:ゼメスター終了パーティーの様子


写真3:パーティーにてエップル教授と

なお今月度の報告書はベルリンで筆を進めている。先月度の報告書でふれたベルリンの文書館になる史料を調査するため7月31日にビーレフェルトをたった。ベルリン中央駅までICEでおよそ3時間半の行程である。列車は30分遅れでビーレフェルト中央駅にきたが、道中は主だったトラブルもなくベルリン中央駅に到着した。ここからSバーンとUバーンを乗り継いでベルリンを南下し、予約しているRathaus Steglitz駅付近のホテルに向かう。

ホテルに到着してチェックインを済ませ部屋に荷物を置くと、利用申込み手続きをおこなうために文書館に向かった。今回調査をおこなう連邦文書館Bundesarchiv zu Berlin-Lichterfeldeはホテルの最寄駅からさらにSバーンで2つ南下したLichterfelde West駅が最寄である。事前に文書館のホームページで調べたところ、駅から文書館までは徒歩15分ほどと記載されていたが15分以上歩いても見えてこない。結局25分ほど歩いたところでようやく門が見えてきた。門前に到着すると横にバス停がある。どうやら文書館のすぐ前にX11番のバスが停まるようであるが、私が滞在しているホテル近くにこの番号のバスは走っていない。もう少しきちんと調査すべきであったと後悔した。

門脇にいる警備員に調査したい旨を述べパスポートを見せて文書館で中に入れてもらう。史料を閲覧できる建物は敷地内一番奥の901番の建物だという。門からさらに5分ほど歩きようやく到着した。受付で再度調査したい旨、そして事前にメールで訪問することを伝えておいた旨を述べて利用申込を済ませた。本来ならば申込のさいに所定の用紙を書かなくてはならないのだが、以前にフライブルクにある連邦軍事文書館Bundesarchiv-Militärarchiv zu Freiburgを利用したことがありそのことを伝えると「その時のデータが残っているので書かなくてよいです」と言われ利用証をすぐに発行してもらうことができた。「すぐに史料を見ますか」と聞かれたが、この時点ですでに18時を過ぎていたため(開放時間は19時まで)、明朝また来ますと伝え、ホテルに戻った。
文書館での調査の詳細にかんしては次月度の報告書で述べたい。


写真4:ベルリン・リヒターフェルデにある連邦文書館の正面
2013/08/15 13:00