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月度報告書(2014年4月度)原田亜希子

原田亜希子


ついにボローニャに到着した。最初の一週間は手続きや生活環境を整えるための準備に費やされた。今回住居はボローニャの城壁の外の郊外のアパートを借りた。中世から繊維業を中心とした産業都市でありながらも河川を持たないボローニャは、その分運搬のための水路が街中に張り巡らされていたというが、私の住む地域はまさしくNavile(水路)地区とよばれ、そのころの面影が今でも若干残っている地区である。住宅街として緑も多く、街の中心まではバスで15分~20分位、バスも5分毎に運行しているため非常に便利である。

2週目からは大学に通い始めた。まずは指導教授であるMaria Giuseppina Muzzarelli先生、Umberto Mazzone先生にお会いした。Muzzarelli先生からは今後の私の研究に関わる先生方を紹介していただき、また今後予定されているセミナー情報などを教えていただいた。またMazzone先生とは直接私の研究計画について議論し、事前に準備していた文献表をもとに今後の研究の方向性を話し合うことができた。


Navile地区Corticellaの家の前の様子


Muzzarelli教授の研究室にてMuzzarelli教授、Prodi教授


Mazzone教授(教授の研究室にて)

また学科の図書館の館長を紹介していただき、図書館の利用法やシステムを詳しく教えていただいた。図書館は近世、中世、考古の3部門に分かれており、中でも最も印象的だったのが、特別に見せていただいた地下の書庫の部分である。もともと私たちの通う歴史・人間文化学科の建物はSan Giovanni in Monte教会付属の修道院が、ナポレオン以降国有化され、牢獄として使われていたものを、大学が買い取り今の校舎になったという。San Giovanni in Monte教会自体が、近隣のSanto Stefano教会とともに中世から巡礼地として重要な拠点であったことから、歴史の古い建物であることは感じていたが、地下にいくと、さらに古い古代ローマ時代の遺跡を基礎に使っていることを目にすることができた。大学の建物自体が古代・中世からの歴史の積み重ねの上にできていること、まさにイタリアの大学ならではの歴史の深さを実感させられた。


San Giovanni in monte教会と歴史学科


歴史学科地下の古代遺跡

また今月は研究とは少し離れるが、生きた歴史を感じることができる2つの貴重なイベントに参加することができた。ひとつは復活祭である。移動式の祝日であり、今年は例年よりも遅かったことから(4月20日)、到着後イタリアの復活祭を体験することができた。

イタリアでは「Natale con i tuoi, Pasqua con chi vuoi(クリスマスは家族と、復活祭は好きな人と過ごす日)」といわれるものの、多くの人が復活祭も家族で祝う習慣がある。またカトリックの国ではあるものの、ほとんどのイタリア人が実際には教会から離れつつある今、復活祭はクリスマスとともに教会のミサが最もにぎわう時期でもある。実際、復活祭前後のミサは「Domenica delle palme」にて祝福されたオリーブの木をお守り代わりにもらうことから始まり、行進(Processione)やドラマチックな聖書朗読、聖職者の赤い衣(1年に2回しか使われない非常に珍しい色である)、覆われたキリスト像など様々な劇的な要素が含まれ、ミサに参加する人々が信仰を実感できるような工夫がなされている。


殉教を表す赤い衣


覆われたキリスト像

中でも私は復活祭の前日の土曜日の深夜、イエズス会の神父のもとで行われたミサに参加させていただいた。日本でもなじみの深いイエズス会では、イグナチウス・ロヨラの提唱した「霊躁」を一般信徒も体験できるよう、イタリアの各地にイエズス会士のセンターがある。ボローニャでは丘の上のボローニャ最大の巡礼地であるSan Luca聖堂の近くにVilla San Giuseppeとよばれる施設があり、ここで家族のための祈りの会や結婚のための準備講習など様々な活動を行っている。

19日の夜はここに50人ほどの人が集まり、まずは持ち寄った簡単な夕食をみんなで食べることから始まった(基本的に復活祭前のこの時期はお肉は食べない人が多い)。そしてそれぞれの祈りの後、夜の11時からミサが始まった。まずは外の焚き火を前に、キリストの復活の意味を確認し、それぞれの心に信仰の新しい炎を灯すための火の儀式を行った後、ろうそくの行進で場所を移し、礼拝堂でミサは続く。3時間にわたる長いミサであったが、実際に参加することで、カトリック信者にとっての復活祭の意味を肌で実感することができ、非常に貴重な経験となった。


Villa San Giuseppeの中庭から見たSan Luca聖堂


Villa San Giuseppeでの火の儀式

またもうひとつのイベントはその一週間後の27日にローマで行われたヨハネ・パオロ2世とヨハネ23世の列聖式である。カトリック教会の近代化を図り、第二次ヴァチカン公会議の開催にこぎつけ「Papa Buono」の愛称で人々に親しまれたヨハネ23世、そして生前から絶大な人気を誇り、文字通り世界中を飛び回ったヨハネ・パオロ2世の列聖式はイタリアのみならず、世界中のカトリック信者の関心を呼び、イタリアのテレビでも毎日のように特番が組まれた。

この世紀のイベントに参加すべく、私は金曜日からローマを訪れた。ちょうど金曜日がイタリアの国民的祝日だったこともあり、すでにローマは金曜日の時点で大勢の人であふれかえっていた。中でも寝袋を背負った巡礼者の波は土曜日の夜にピークを向かえ、サンピエトロ広場、そしてそこに続くVia della Conciliazioneは夜中の3時の時点ですでに巡礼者でいっぱいになっていた。そのため私は日曜日の朝一に街中に設置されるスクリーンで列聖式を見物するべく、中央駅近くのSanta Maria Maggiore聖堂の広場に陣取った。ミサは10時からの予定であったが、すでに7時の時点でスクリーンの前に人が集まり、ミサが始まるころには道路を挟んだ広場の外まで人であふれかえっていた。


金曜日の時点ですでに人の多いサンピエトロ広場


サンタ・マリア・マッジョーレ聖堂のスクリーン

今回の列聖式は列聖までの手続きが異例の速さで行われたこともさることながら、最も異例であったのは現教皇フランシスコのみならず、2013年に自ら退位したベネディクトゥス16世も参加したことである。そのため2人の教皇が2人の教皇を列聖するという計4人の教皇がサンピエトロに集まることとなった。当然このような事態は教会史上初めてのことであり、またこの先もなかなか起こることはないであろう特別なものとなった。

ミサ自体はラテン語で粛々と行われ、2時間ほどであったが、何よりも私にとって印象的であったのは、列聖式に際するカトリック信者の熱気である。最終的にローマには100万人ほどの巡礼者が集まったというが、列聖という行為がこれほど多くの人々をひきつけ、重要な意味を持つものであるということを身にしみて感じられた。

またそれと同時に興味深かったのは、巡礼者を受け入れるためのローマ市の対応である。今回の列聖式のためにローマの至る場所に救護場所や仮設トイレが設置され、サンピエトロ聖堂行きのバスは24時間体制。町中に警察や警備、ボランティアが配備され、前日からは無料で水のペットボトルを配布し、またローマのホテルやレストランで高額請求をされたときのための相談場所や対処法が書かれた注意書きが配られるなど、万全の対策が採られていた。

ローマは昨年に市長が変わったところであり、新市長Marinoにとって自らの政治的手腕を披露する絶好の機会でもあったといえる。翌日の新聞によると、このためにローマ市は500万ユーロを負担したという。多少の混乱はあったものの、あれほどの人があふれかえったローマで大きな事故もなく列聖式を終えられたことは、これらローマ市の対応の成果といえよう。

そして最も興味深いのはこのようなローマ市の対応は、中世や近世から変わっていない点である。私が研究対象とする16世紀にも都市の評議会では巡礼者が増える聖年のためのインフラ整備、食糧確保、詐欺の取締りのための様々な対策が話し合われ、特別会計が組まれていたことが議事録から確認できる。カトリックの中心地であるローマにとって巡礼者を受け入れることは中世から常に大きな課題であり、今回の列聖式を通じて当時の様子に思いをはせることができた。

遠く離れた日本で研究していると忘れがちであるが、われわれが研究している歴史は決して過去の断絶したものではなく、今なおヨーロッパ文化圏では連綿と受け継がれているのであり、今回の二つのイベントはそのことを今一度実感できる非常に貴重な機会となった。


ナヴォーナ広場での水の配布
2014/05/23 13:00