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頭脳循環を加速する若手研究者戦略的海外派遣プログラム~EU枠内外におけるトランスローカルな都市ネットワークに基づく合同生活圏の再構築

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月度報告書(2014年5月度)原田亜希子

原田亜希子


5月のボローニャは、日差しも強くなり、外で過ごすには最適の気候である。
今月も先月に引き続き、ボローニャ滞在のための手続きが続いた。滞在許可証とともに、こちらでの生活に必要な手続きは、市役所への住民登録である。まず最寄の役所に住民登録の申請に行くと、二週間以内に自宅に警官がやってきて、実際に申請した住所に居住していることを確認する。この警官の訪問の日時は事前には知らされず、時間帯のみの指定となる。そのためこの期間はしばらく家を空けることができず不便であるが、確認が済むとその後10日ほどで住民登録が完了する。

しかしこれで終わりではない。登録が住むとすぐにしなければいけないことは、ごみ税の支払いである。14世紀末からボローニャでは、ボローニャ市民の条件として、都市の防衛と納税の義務が定められていた。現在では都市の防衛の義務はなくなったとはいえ、納税の義務は重要な課題である。ごみ税を支払いようやくボローニャ市民となったような気がした。なお、ごみの処理に関しては、ナポリのごみ問題が日本でも取り上げられて有名ではあるが、ここボローニャでは非常にスムーズに機能している。ごみはプラスチック、ビン、ダンボール、生ごみ、それ以外のごみとに分別され、街にあるそれぞれのゴミ箱に捨てるようになっている。特に生ごみに関しては、市役所で無料で配られている生ごみ専用の袋を使用し、生ごみ用のゴミ箱は鍵を開けて使うようになっている。また使用済みの揚げ物油も専用の回収ボックスが設置されている。


手前からその他のごみ、ビン、ダンボール専用ゴミ箱


生ごみ専用ゴミ箱。緑色のプラスチックの部分が鍵

今月からボローニャ国立文書館での史料調査を開始した。初回は指導教授のMazzone先生が一緒に行ってくださり、文書館の初回の登録や使用方法、私の研究に関係のある文書などを直接教えてくださった。ボローニャ国立文書館はボローニャの中心のPiazza Maggioreに近い中心地にある。もともとはケレスティヌス会の修道院であった建物を改築し、1940年代以降国立文書館として使用している。外観のピンクの壁が非常に印象的な建物である。初回は身分証明書を提示し、研究テーマや所属などを登録する必要がある。しかし一度登録すると1年間有効であり、これ以降いつでも閲覧室を利用することができる。ボローニャの文書館の特徴のひとつがその開館時間の長さである。平日は8時15分から19時15分まで、さらに時前に史料を申請していれば土曜日の午前中も利用することができるため、研究者にとって非常にありがたい環境である。史料は基本的に年代ごとにグループ化されており、私が使用するのは教皇庁と都市政府との2重統治であったGoverno mistoとよばれる時代のものである。Mazzone先生と話し合った結果、中でもまず16世紀後半の都市政府の最も重要な役職であるセナートの評議会決議録(Partito、1514-1604の計13巻)、セナートから在ローマボローニャ大使に送られた書簡集(Lettere、Serie VII)を調査することとなった。先生は5月から6月末まで交換授業のためにビーレフェルトに行かれるため、ボローニャに戻ってこられた時に史料調査の成果をまとめて報告することになっている。


ボローニャ国立文書館


文書館入り口

また先月末から今月にかけて、3つのシンポジウム・講演会に参加した。1つ目は教皇の列聖式(4月月例報告参照)の翌日に、ローマ第三大で行われたシンポジウム「ローマに来ること/ローマにとどまることの違い-16-17世紀のローマの外国人-」である。前日の列聖式のために世界中から巡礼者が集まっていたために、タイムリーなテーマであったこのシンポジウムは、単にローマにやってきた外国人に注目するだけでなく、彼らの同郷のつながりやローマ人との融合、ローマでの生活の確立の様子などを「住居・仕事・結婚・宗教・埋葬」の側面に注目して再考察することを目的としたものである。ローマは近世の人口に関する史料が著しく少なく、小教区名簿も17世紀以降しか残っていないために、史料上の制約がある中で、興味深かったのは、現存するデータを新しい視点で使用する可能性が提示された点である。たとえば、比較的保存されている裁判記録を用いて証言者の名前から外国人のローマでの人的ネットワークを再構成する興味深い研究が発表されていた。また技術的にもスカイプを使用してドイツにいる研究者が発表し、会場と活発に議論していた点も新鮮であった。


ローマ第三大学文学部校舎内


スカイプを使用してのシンポジウムの様子

二つ目はボローニャ大学政経学部の教授Mauro Carboni先生のご著書「Il credito disciplinato: Il Monte di Pietà di Bologna in età barocca」の出版記念講演である。Carboni先生とは今年の2月に大阪市立大学で行われた質業の東西比較研究のための小円座、そしてその翌日の京都大学で行われた講演会にてお会いし、連絡先を交換することができた。そのため今回の講演会の情報も直接先生よりご連絡いただき、ボローニャにて再びお会いできることとなった。今回の講演会は、Monte di Pietàに関する史料をもとに、先生が10年以上の歳月をかけて行ってきた研究の集大成であるご著書を、二人の経済学部教授のコメント、そしてそれに対するCarboni先生の回答という形で紹介された。通常中世に関する研究が多いMonte であるが、ボローニャの特徴はMonteが近世以降大きく変容し、近代的金融機関に発展した点にある。Carboni先生はその変容に注目し、Monteの活動の拡大やその機能の規律化の過程を明らかにしている。講演会では歴史的観点のみならず、経済的観点においても活発な議論がなされた。また講演のあとCarboni先生と直接お話しすることができ、私の研究テーマである近世における教皇庁と都市政府との関係に関して経済的視点からの貴重なアドバイスをいただいた。


Carboni先生の講演


会場のMonte di Pietà財団本部外観

三つ目はボローニャの社会福祉団体が企画し、ボローニャ大学や一般企業の協賛のもとで行われたイベントでの市民講演である。「Mens-a」と題したこのイベントは毎年開かれ、ボローニャの文化を題材に3日間様々な催しを行っている。特に今年は2015年に行われるミラノでのエキスポとの関連から、食文化を中心とした「安らぎを与えること」をテーマに、講演会・コンサート・演劇などが行われた。中でも私は指導教授であるMuzzarelli先生の講演に参加した。Muzzarelli先生のご専門は中世史ではあるが、今回の講演は食文化というテーマに即して、19世紀から20世紀初頭にかけて活躍した一人の女性知識人Dottor Amal(ペンネームとしてわざと男性の名前を使っていた)が新聞に書いていた料理レシピ、医療コラムをもとにお話をされた。記事の引用からは単に食べるためだけではなく、家族に「安らぎを与える場」としての食事・食卓の役割を当時の女性が意識していたいたことが浮き彫りとなった。また興味深かったのが、この講演が歴史的に人々に安らぎを与える場としての機能を実際に果たしていたであろうOratorio di San Filippo Neriにて行われたことである。現在はMonte財団が所有するこの場所は、特別なイベントが行われない限りは月初めの週末しか一般公開されていないため、その意味でも貴重な体験となった。


Oratorio di San Filippo Neri内


Muzzarelli先生の講演

街中にバラや夾竹桃など色とりどりの花があふれる5月は、キリスト教の暦では「マリアの月」とよばれ、教会の中でも聖母マリアのイコンの周りは色とりどりの花で飾られる。

中でもボローニャにとって最も重要なマリア像といえば、ボローニャ郊外の丘の上の巡礼地San Luca聖堂に収められている、聖母マリアのイコンである。聖ルーカ自身によって描かれたと言い伝えられているこのイコンは、12世紀に現在の場所にもたらされたというが、今でもボローニャ人の篤い信仰の対象となっている。そしてこのイコンが年に一度、キリストの昇天祭の一週前の土曜日から翌週の日曜日までボローニャの街に下りてくる。

この聖母信仰をさらに強めるきっかけになったのが、1433年のイコンがもたらした奇跡である。この都市は春の雨が続いたことで農作物に深刻な影響を与える可能性が懸念され、当時の司教が聖母マリアへの祈願のためにイコンをボローニャの街に運ばせた。するとイコンが街に入るや否や雨がやむという奇跡が起こったという。これ以降も毎年イコンはボローニャの街に運ばれた。

これは現在でも続いており、今年は5月24日の土曜日にSan Luca聖堂からボローニャの司教座聖堂であるSan Pietro聖堂までイコンの行進が行われた。San Luca聖堂からポルティコを通って運ばれたイコンは、Saragozza門で待ち構えるボローニャ司教や枢機卿、そして大勢のボローニャ人の拍手の中、街にもたらされた。そしてその後、イコンを先頭にして街の中心をAve Mariaの祈りの合唱の中行進が続いた。私はSaragozza門からこの行進に参加した。道にはイコンを歓迎するためにいたるところに花びらがまかれ、イコンが教会の前を通るたびに鐘が鳴らされた。また行進が通る道に面した建物の窓は伝統的な赤や黄色の旗で飾られており、今まで史料で見ていた様々な入市式の様子を実際に目にしたように感じた。

翌日はSan Pietro聖堂でイコンを前にボローニャ司教によるミサが行われた。このミサにはイコンの奇跡を求めて多くの人が駆けつけ、特に病院からの専用バスが運行していた。この日はちょうどこのSan Pietro聖堂近くで開催していたフェルメールの「真珠の耳飾の少女」の展覧会の最終日であり、また欧州議会選挙の日でもあったため、ボローニャの街は人であふれかえっていた。Via Indipenzaの喧騒と聖堂内の荘厳な雰囲気のギャップを感じながらも、ショッピングやおしゃべりに夢中な若者の多くが、イコンが見えるように半分開かれた聖堂の中央扉の前を通る時には、一年に一度ボローニャにやってくるイコンの話をしながら足を止めてみている様子は印象的だった。


花で飾られたマリア像


San Luca聖堂のイコンがSaragozza門から街に入る様子


行進の様子


行進の通る道路に面した建物の窓に飾られた紋章の入った旗
2014/06/27 15:00