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月度報告書(2014年6月度)原田亜希子

原田亜希子


6月は1年の中でも一番日照時間が長く、9時近くまで明るいために、夕方から街に繰り出し外で過ごす人の姿が多く見られるようになった。またワールドカップが始まったこともあり、アパートのバルコニーや車の窓など至る所にイタリアの国旗が掲げられ、イタリア戦の日にはスポーツバーや街の広場は特別に設置されたスクリーンを見ながら応援する人であふれかえった。残念ながらイタリアは日本同様予選リーグで敗退してしまったために、ワールドカップの熱狂は短かったが、それでも4年に一度のイベントに、サッカー大国のひとつであるイタリアの盛り上がりを目にすることができた。また郷土愛が強く、地域ごとのアイデンティティーが確立しているため、普段はイタリア人である前にボローニャ人である人々に、ワールドカップの試合時にはにわかにイタリア人としてのアイデンティティが芽生える点も非常に興味深かった。


イタリア戦の日の街の様子


仮設のスクリーンで試合を観戦する人たち

今月も先月に引き続きボローニャの図書館での研究文献の調査、ならびに文書館での史料調査をおこなった。ボローニャの主な図書館はチェントロの徒歩圏内にあり、それぞれ特徴を持っている。また検索システムも整理され、ボローニャ大学関係図書館、ボローニャ・近郊のすべての図書館の蔵書が一度に検索できるようになっているため(http://sol.unibo.it/SebinaOpac/Opac?sysb=)、非常に使いやすい。主に私はボローニャ大学歴史学部図書館のほか、Biblioteca Giuseppe Dossetti、Biblioteca Archiginnasio、そしてBiblioteca Salaborsaを用途に合わせて使いわけている。

圧倒的に宗教的分野の蔵書を誇るのがBiblioteca Giuseppe Dossettiである。またArchiginnasioは主に古い時代の研究書や史料が豊富である。またこの図書館はボローニャ大学旧校舎Archiginnasio宮内にある。建物自体はもともと1562年から1563年にかけて当時の教皇特使Borromeo枢機卿によって、トレント会議後の文化的改革の一環として、それまでの分散した大学校舎をひとつにまとめる目的のもと作られたものである。図書館部分はArchiginnasio宮の見学可能部分とは仕切られているために、通常は観光客が入れないようになっているが、閲覧室の装飾も非常に見ごたえのあるものである。ただこの図書館は古い文献が多いだけに館内閲覧のみの史料が多い。一方、ボローニャ大学の歴史学図書館は歴史学専門であるだけに、専門的学術書が最もそろっているといえる。ただし一度に借りられる量が3冊と限られており、また閉架式で1時間ごとにしか本を請求できない点は若干不便である。

その点唯一の開架式の図書館がBiblioteca Salaborsaである。この図書館は基本的には市民向けの図書館であるため、専門書の数は少ないが、私の研究分野であるボローニャ都市史に関しは、地方史(Storia Locale)として専用のスペースが設けられ、比較的最近発表された研究文献が網羅的に集められている。自由に本を手にとって閲覧できる点は最大のメリットであり、一度に10冊まで借りられる点も非常にうれしいサービスである。このほかにも時に美術・歴史書専門図書館や他学部の図書館など様々な図書館を必要に応じて使い分けながら、研究を行っている。

なおBiblioteca Salaborsaでは定期的に市民講座も行っている。私は5月末から6月初頭にかけて毎週金曜日に計3回行われた「中世ボローニャの山岳地帯における統治状況」に関する講座に参加した。1回目は「封建領主とコムーネ」、2回目は「山岳地帯の信仰生活・教区制度の発展」、3回目は「山岳地帯の水道をめぐる問題」とそれぞれテーマに合わせて講演が行われた。講演は地方史の研究者らによって行われ、市民講座ではあるが内容はかなり専門的なものであった。また現存する史料の今後の可能性や、これまでの地方史の蓄積を単に郷土賛美だけにとどめず、ボローニャやひいてはエミリア・ロマーニャ史研究という広い枠組みの中でどのように生かせるかといった今後の課題なども議論された。さらに驚いたのが、どの回も思った以上に参加者が多く、毎回講演のあとには質問など聴講者側が活発に参加していた点である。ボローニャの人々の知的関心の高さがうかがえた。


歴史学部図書館の本棚


Salaborsa図書館内部


Salaborsaの市民講座の様子

また文書史料に関しては、先月に引き続き、ボローニャ国立文書館にて調査を行っている。先月の報告書にも書いたとおり、現在は16世紀のボローニャ都市政府最高役職であるセナートの決議記録の調査を行っている。なお、ボローニャ国立文書館では、申請し規定の料金(4ユーロ)を払うと、自分のカメラで好きなだけ文書を写真に取ることが許可されている。日本という遠方でイタリア史を研究するものにとって大変ありがたいシステムである。しかし、写真のデータだけでは実際の紙の史料が伝える多くの情報をえられないのも事実である。たとえば紙の質の違いは写真からはなかなか判別しづらい。

また現地で長期滞在して調査するメリットのひとつとして、文書に書かれていることを実際に街中で目で確認することができることがある点である。たとえば、16世紀のセナートの決議内容としてよく見られるのが、建築許可やポルティコ除去の許可、広場の改築など都市整備に関する事項である。16世紀は都市計画が行われ、また中世のコムーネの時代には均質的な都市景観であったものが、徐々に貴族の概念が広まり、セナートという役職の下に権限が集中したことで、セナートの出身家系が自身の権限を誇示するために豪華な邸宅(Palazzo)の建築に着手した。そしてこれらのPalazzoは近代の間に手が加えられたとはいえ、現在もボローニャの街中の至る所で目にすることができる。そのため、文書館での調査の後、日が長いことを利用してその日に見た文書に書かれていた内容を実際に自分の目で確かめることができるのである。 


Palazzo Albergati概観(正面)


Palazzo Albergati横からの様子

[参考]
16世紀初期の建築。ローマ風のファザードにするために建築許可と、ポルティコ除去の許可を得ていたことが議事録から確認できる。
横から見ると実際に他の建物よりも道路(コムーネの土地)に張り出している様子がよく分かる。

また長期滞在での文書館の調査ならではの利点は、毎日継続的に通うことによって、文書館で研究を行っている他の研究者と交流ができる点である。実際2ヶ月調査を行っている間に、何人か顔なじみとなった研究者で研究分野の近い人と意見を交わす機会があった。特に同年代で中世の都市条例を研究している博士課程の学生とは、互いの史料を見せ合い、情報を交換することができた。普段は自分の研究テーマの時代の史料しか目にしないために、異なる時代の違うタイプの史料を見ることは稀であり、また自身の研究にとっても有意義な情報を聞くことができた点でも文書館の交流は貴重な機会となった。            
また6月はボローニャ近郊の街でSagra(お祭り)として様々なイベントが開催された。通常Sagraはその土地の名産品(たとえばラザニア祭りやトルテッリーニ(ボローニャの郷土料理の一つで詰め物をしたパスタのこと)祭りなど)や、その時期の収穫物(アスパラガス祭り、メロン祭りなど)をテーマに行われる。

また時には歴史的題材をテーマにした祭りも行われる。たとえば1527年(ローマ劫略の年)のドイツ兵による包囲を再現する祭りや、1390年のボローニャとヴィスコンティ家の戦いを記念した祭り、中世の生活を再現する祭りなどである。これらの祭りは主に当時の衣装を着た人物による街の練り歩きが行われ、街の中心広場で様々な屋台が出て郷土料理が提供される。

中でも私はボローニャ近郊のSan Giorgio di Piano市で行われた中世祭りと、Bentivoglio市で行われたお城でのイベントに参加した。特に興味深かったのはBentivoglioでのイベントである。街の名前からも分かるとおり、この地はもともとボローニャの伝統的有力家系のひとつであるBentivoglio家の封土であった場所である。


中世祭りでの中世の職業のデモンストレーション


ボローニャ市内旧Bentivoglio宮跡地

Bentivoglio家は15世紀後半に一時ボローニャの実質的支配者にまで上りつめた家系であるものの、ユリウス2世のボローニャ遠征によって権限を失い、一時亡命を余儀なくされている。そしてその際にBentivoglio家の市内の館は破壊されたため、現在ボローニャの街にBentivoglio家にゆかりのあるものはほとんど残っていない。しかし15世紀後半のフィレンツェの影響を受けたボローニャのルネッサンス文化が花開いたのはまさにBentivoglio家の宮廷においてであり、その面影を唯一残してくれるのがボローニャ郊外のこのBentivolioのお城である。現在は癌研究所として一部使われ、一般の公開はされていないが、このイベントに際してお城の見学ができると聞き、駆けつけた。

お城自体はもともとボローニャのコムーネが所有していたが、Bentivolgio家の当時の頭首Giovanni2世が1475年から1481年にかけて改築を行ったものである。お城はフェッラーラのPalazzo Schifanoiaと同じように「Domus Jocunditatis」とよばれ、狩りなどの娯楽のための施設して使われていたという。この場所にはかのチェーザレ・ボルジアの妹ルクレツィアが3度目の結婚でエステ家のアルフォンソ2世と結婚する前に訪れ、両者の初顔合わせが行われた場所といわれている。典型的なルネッサンス様式のお城で、19世紀にこの城の所有者であったPizzardi侯の命で修復を担当したRubbianiの手が入っているものの、いまだに当時の面影を我々に伝えてくれている。

残念ながらその後の管理の悪さや大戦時の爆撃の影響で、装飾の多くは残っていないが、興味深かったのは「パンの歴史の間」と呼ばれる部屋のフレスコ画である。現在もBentivoglio一体は耕作地であるが、このフレスコ画からは当時のこの地域の様子や、そこで収穫された小麦が都市民の生活を支え、都市と周辺地域が密接に結びついていた様子がうかがえる。

現在私が調査中の決議史料の中でも都市民の食糧供給問題が頻繁に議論されているが、近世における食糧供給は統治の正統制を保障するための重要な課題であり、また近郊の領主である都市の役職者と教皇庁の役職、つまり都市・周辺領域と中央の教皇庁との権力関係が顕著に現れるテーマのひとつであった。「パンの歴史」はまさに歴史的に周辺領域と密接な関係を築いていた都市の在地勢力を浮き彫りにし、それが教皇庁の中央集権的行政の前にどのように変遷したのかという、今後の私の研究にひとつの重要な視点を提供してくれたように思う。


Bentivoglio市のお城外観


パンの間のフレスコ画


作業の後ろに都市が描かれることで両者の密接なつながりが表されている
2014/07/24 15:00