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月度報告書(2014年7月度)原田亜希子

原田亜希子


7月に入り、街も徐々にヴァカンス気分で盛り上がってきた。また7月の風物といえば、夏のセールである。特に初日の第一土曜日には、中央駅から街の中央広場までを結ぶ目抜き通りのVia Indipendenzaが大勢の人でにぎわった。そもそもこの道は土日は歩行者天国になり、多くの店舗が連なっているが、この日はどの店も大々的にセールの宣伝で飾られ、普段は経済危機で財布の紐が硬いボローニャ人も両手いっぱいの紙袋を持っている姿が多く見られた。

また経済危機とはいえ、イタリア人にとって夏のもうひとつの風物といえば長いヴァカンスである。昔のように8月いっぱいの長期休暇を取ることは難しくなったとはいえ、どんなときでもヴァカンスを楽しむのは最大の関心ごとであり、最近は8月のオンシーズンは値段が高いためにわざと時期をはずして7月と9月に分散して休暇を取る人が多くなったという。今年は例年よりも雨が多く、7月に入っても肌寒い日が続いていたが、それでも週末になると太陽と海を求める人が多く、ここボローニャから一番近い海水浴場であるラヴェンナ・リミニ方面の高速道路が大渋滞している様子が連日ニュースで流されていた。


Via Indipendenzaの様子

また大学都市ならではのボローニャの7月の風物といえば、卒業である。先月の中谷氏の報告の中でも少し触れられていたが、ここイタリアの卒業は日本のように一斉に卒業式を行うわけではない。それぞれの学生がすべての単位を取得すると、卒業論文を提出し、指導教授と最終口答試験の日にちを決定して、その日に卒業することになる。特に学期末である6月・7月は卒業する人が多くなる。卒業式の日にはまず口答試験が公開で行われ、卒業生の親族を初め多くの友達が口答試験を見学する。

そしてその後成績が言い渡され卒業が決まると、月桂樹の冠をかぶり、記念写真を撮った後レストランやバーなどでお祝いのパーティーが開かれる。ただしこのパーティーの前に卒業生を待ち受けているのが、友達たちの愛のこもったいたずらである。そのため「Dottore Dottore」と歌いながら街を練り歩いたり、「Papiro」とよばれる卒業生に関する詩の書かれた紙を友達たちが用意し、卒業生本人に広場で大声で読みあげさせたり、通行人を交えて卒業生にいたずらをさせたりする姿が、特に大学のキャンパスが集中するVia Zamboniではよく見られた。

ちなみにこのような街中でのいたずらは、5年前に留学したローマではあまり見かけられず、特に北の街(同じく大学都市のパドヴァやヴェネツィアなど)でよく見られるように思う。ローマに比べて街の規模が小さいために、物理的にも街中を練り歩きやすいのは確かであるが、それだけではなく、歴史的に街と大学の関係が強い点も影響しているように思われる。


Via Zamboniの様子、大学の前にたくさんの卒業生の姿が見られる。


Piazza Maggioreでのいたずらの様子


歴史学科友人Beatrice Minottaさんの卒業の様子


教授や友人との記念写真


パーティーの様子 (Auguri Dottoressa!! Grazie per la collaborazione!)

今月も引き続き文書館での調査を行った。また、今月は6月いっぱいビーレフェルトにて交換授業を行っていたMazzone先生がイタリアに戻られたので、今までの研究状況を報告し、今後の方向性について話し合うことができた。その結果、先月までに調査した16世紀のセナートの決議記録の中からいくつかのテーマにしぼり、今後はそれに関する史料を集中的に見ていくことになった。特に先月の報告書で触れた食料供給に関しては、セナートのみならず、都市内での様々な階層の利害が密接に絡み合っていることから、セナート以外に食糧供給に関わっていた役職(コムーネの伝統的役職であるAnzianiなど)の活動記録や、都市民に対して出された布告などもあわせて調査していくことになった。

またそれと同時に都市と教皇庁との関係を見る上で重要な史料である、ローマ駐在ボローニャ大使とセナートの間で交わされた書簡集も引き続き調査を行った。なお、この史料はこれまで見ていた決議史料に比べて手書きの文字が読みづらいため、最初は判別することが困難であった。Mazzone先生からは近世のものは特に読みにくいため「Abbia pazienza(根気強くがんばるように)」とアドバイスいただいていたが、それでも読むというよりは眺めるに近い状況で、遅々と進まないことに焦りを感じていた。しかし先生がおっしゃっていたように毎日根気強く眺めていたおかげで今月はかなり史料に慣れ、徐々に問題なく読めるようになってきた。

また実際に読み始めると、決議記録のような公式の史料はラテン語で形式に従って書かれているために淡白な印象は否めないが、対して書簡史料はイタリア語でかかれ、また表現も非常に口語的で生き生きとした様子が垣間見れるために非常に興味深い。さらに日付をおっていくと、かなり頻繁に書簡が交わされていたことがうかがえる。今でこそボローニャ・ローマ間は高速鉄道で2時間ほどとはいえ、16世紀当時はかなりの時間がかかったと思われるが、ボローニャは交通の便がよかったこともあり、多くの飛脚が行き来していたようである。実際に教皇の死去のような重要な知らせは、特急でほぼすぐに情報を得ることができていたことが確認できる。

また今月も文書館でうれしい出会いがあった。私の研究テーマである近世の教皇庁と都市ボローニャとの関係に関する研究者の一人であるAndrea Gardi教授と文書館で偶然にもお会いすることができたのだ。Gardi氏の研究は、主に16世紀に教皇庁からボローニャに派遣されたLegato(教皇特使)の活動に注目し、教皇庁の中央集権的体制への発展の中でのボローニャの事例を扱っている。私が研究対象としている都市政府の活動とは対照的ではあるが、しかしながらこの時代の都市の行政活動を実証的に扱った最初の研究であり、またLegatoの活動を通じて都市の役職の様子も垣間見れることから一度ぜひ私の研究に関して相談させていただければと思っていた。Muzzarelli先生と面談した際も、Gardi氏は現在Udine大の教授であるために、秋以降ぜひ連絡を取って会いに行くことを進められていた。先生はたまたまご自身の研究のために文書館にいらっしゃっていたのだが、簡単に自己紹介をさせてもらったところ、私の研究に非常に興味を持ってくださり、別室でゆっくりお話しし、貴重なアドバイスをいただくことができた。また現在9月18日~19日にかけてローマで行われる研究会を企画しておられ、その際にボローニャの教皇特使に関する史料を紹介する発表をされるそうで、そちらにもよんでいただいたので、ぜひ参加したいと考えている。

ボローニャの若者グループLùnapopが1999年の大ヒット曲50 Specialの歌詞の中で夏休みにヴェスパに乗って「ボローニャの丘を回るのはなんてすてきなことだろう!」と歌っているように、この時期にボローニャの丘を車でドライブすることは地元の人からも愛される休日の過ごし方である。

ボローニャのあるエミリア州は平野が広がり、先週の報告書で挙げたBentivoglioなど、ボローニャの北部にかけては広大な平野の景色を楽しむことができるが、これに対してボローニャから西のアペニン山脈にかけては一転して丘がちの景色が広がる。歴史的にもこれら山岳地域は都市政府の権限が弱く、封建領主や大修道院の領地が広がっていたために、現在もその当時の修道院や城塞を目にすることができる。また地形をいかしてブドウを栽培し、この地域はワインでも有名である。そのため丘からの景色を眺めながら、地元で取れた食材を使ったボローニャの郷土料理とワインを楽しむことができるOsteria(食堂)も人気である。


ボローニャ北東部の平野の風景


対してボローニャ西部の緩やかな丘の広がる風景
 

Colli Bolognesiのワイン畑の風景


地元でつくられたハムやチーズ、そして左に写っている丸いパンTigelleや
奥の小さな丸い容器に入っているラードを使ったペーストはエミリア・ロマーニャの伝統的な料理である。

そこで今月は週末にColli Bolognesi(ボローニャの丘)の中でも、ボローニャから25キロほどのところにあるMonteveglioを見学しに行った。この土地の歴史は古く、新石器時代から居住地であったことが確認されているが、特に歴史的にこの地が有名になったのは、11世紀にカノッサのマティルダの封土になったことにある。マティルダといえば、教皇と皇帝の間の聖職叙任権を巡る対立によって起こった「カノッサの屈辱」事件で有名な人物である。

一般的にはカノッサの屈辱によって皇帝権に対する教皇の勝利が強調されているが、実際にはこの事件の後ハインリヒ4世は軍勢を引きつれイタリアに南下し、ローマを包囲している。このときに、一貫して教皇を支持していたマティルダの封土であるMonteveglioも皇帝軍の攻撃を受けることになった。しかし奇跡的にも、悪天候に助けられMonteveglioが陥落することはなく、むしろ皇帝は自身の息子をMonteveglioでの闘いで失うことになったという。

その後、この地はボローニャのコムーネに一次服従するものの、地理的にもモデナとの間の戦略的重要地点に位置したために、ボローニャとモデナの党派争いに巻き込まれることになった。16世紀以降は軍事技術の発展からこの地の重要性が薄れたことで、徐々に衰退することになるが、1527年のSacco di Roma(ローマ劫略)の際には再びこの地が皇帝軍に攻められることになった。しかしこのときも地元の住民の聖母マリアへの祈りによって奇跡的に雪が降ったことで皇帝軍が退却することになったという。

このときの奇跡を記念して、今でもMonteveglioでは聖母マリアへの感謝の祭りが毎年行われている。なお現在は観光地化し、この地には大きな国立公園が作られ、またMonteveglioの歴史を紹介する資料館も建てられている。とはいえ、マティルダによって創設された修道院はいまもなお使われ、付属の教会には、ちょうど日曜日であったことから近郊の住民がミサの時間にたくさん集まっていた。


Monteveglio入り口


街の様子


資料館のMonteveglioの歴史説明パネル


Monteveglioの修道院


Monteveglioからの景色
2014/08/22 13:00