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月度報告書(2014年7月度)有田豊

有田豊


今月は,ボローニャ大学で指導教員であるマッツォーネ教授から研究指導を受けたのち,イタリアはピエモンテ州にある「ヴァルド派の谷」Valli Valdesiにて研究調査を行った.

マッツォーネ教授には6月に初めて挨拶に伺った際,イタリアでの研究計画書を改めて渡しておいたこともあり,今回はその内容を踏まえた上で様々な情報を提供して下さった.報告者はイタリア滞在中にヴァルド派に関する史跡訪問を中心としたフィールドワークを行うことを計画しており,教授からもその方向性で研究を進めるよう指示を受けたので,当初の計画通り研究を続ける予定である.

先月のフランスでの調査に引き続き,今月はイタリアのヴァルド派コミュニティの中心地「ヴァルド派の谷」Valli Valdesiにて同様に調査を行った.ヴァルド派の谷(以下「谷」)とは,ピエモンテ州の州都トリノから南西へ約50キロほど進んだ,フランスとの国境地帯に広がる3つの渓谷――ペッリーチェ谷Val Pellice,キゾーネ谷Val Chisone,ジェルマナスカ谷Val Germanasca――の通称である.

13世紀よりこの一帯で信仰を保持してきたヴァルド派にとって「谷」は特別な意味を持ち,かつてはヴァルド派(仏Les Vaudois,伊I Valdesi,独Die Waldenser,英The Waldenses,羅Valdenses, Waldenses)という名称自体,創設者であるリヨンの豪商ヴァルドValdoに由来するのではなく,ラテン語で“谷”を意味するウァリスVallisから派生したものとする説があったほどである.ゆえに,ヴァルド派と谷との結びつきは,地理的,精神的ともに深く,現代でも彼らの活動は「谷」を中心に行われている.「谷」の中枢は,ペッリーチェ谷の一集落トッレ・ペッリーチェTorre Pelliceにあり,ヴァルド派福音教会本部をはじめ,教会,文化センター,牧師用の寄宿舎,信者用の巡礼宿など,ヴァルド派に関連する様々な施設が集中している.そのため,報告者もここを拠点に調査を行った.

【ヴァルド派福音教会本部カーザ・ヴァルデーゼ Casa Valdese(1889年建造)】
 

【トッレ・ペッリーチェのヴァルド派教会(1852年建造)】
 

「谷」での研究調査は,①ヴァルド派文化センターでの文献蒐集と史料分析,②ヴァルド派関連の史跡訪問,の2つを有機的に連関させながら進めていく.報告者が当地を訪れるのは3度目であり,此度の調査についても文化センターの方に予めメールで協力を依頼しておいたので,到着後すぐに研究活動に取り掛かることができた.

上述のヴァルド派文化センターCentro Culturale Valdese(1989年創設)は,複合研究施設である.図書館,古文書館,写真保管所,史跡案内所,歴史博物館,民俗博物館,ヴァルド派研究協会Società di Studi Valdesi本部,書籍販売所などが一つの建物内に収まっており,研究者のみならず,ヴァルド派に関心のある観光客の出入りも珍しくない.報告者は2006年の初訪問以来,当文化センターには長年お世話になっており,日本にいた時も有益な文献やイベントなどの情報提供を頻繁に受けていた,今回も専用の机を一つ割り当てていただき,図書館,古文書館,史跡案内所を行き来しながら,日々の研究活動を進めていった.

【ヴァルド派文化センターCentro Culturale Valdese(1922年建造):寄宿学校だったものを改装し,現在に至る】
 

到着直後は,ボローニャで入手できなかった文献の蒐集と,ここでしか閲覧できない史料の分析につとめた.当文化センターの図書館と古文書館は,いうまでもなくヴァルド派関連の文献を中心に保管しているため,ヴァルド派に限定すれば,大抵の文献が入手可能といっても過言ではない.事前に用意しておいた入手希望文献リストを司書のマルコ・フラティーニMarco Fratini,エンリカ・モッラEnrica Morra両氏に確認してもらい,該当する文献を一通り見せてもらった上,必要と思われるものを随時複写した.著作権の関係から研究書は一定以上を複写できないため,ヴァルド派研究協会印行の文献(当会員であれば,定価の半額で購入可)は併設の書籍販売所で購入し,それ以外はトッレ・ペッリーチェ中心部にあるクラウディアーナ書店で注文した.

文献蒐集が一段落すると,史料分析に取り掛かった.1848年のイタリア統一運動以降のヴァルド派信者たちが,いかに自らの過去と向き合ってきたのかを知る手がかりとして,報告者はヴァルド派が作成する新聞L’Echo des Vallées Vaudoises(仏:ヴァルド派の谷のこだま.1939年12月8日よりイタリア語のL’Eco delle Valli Valdesiに名称変更)に着目している.この新聞は,1848年3月26日にサルデーニャ王国内で「出版の自由」が認められたのを機にヴァルド派が発行しはじめたもので,主に「谷」に関する情報を発信する構成をとっており,19世紀以降イタリアの都市部ひいては国外へ進出していく信者たちと「谷」を通してヴァルド派としての意識を共有,保持するツールとなっていることが伺える.当文化センターには創刊号(1848年7月13日)からの充実した保管があるため,紙面に表れる「ヴァルド派の声」を分析することで,近代以降におけるヴァルド派の地域アイデンティティの形成過程と集団意識の保持システムを読み解いていきたいと考えている.

【『ヴァルド派の谷のこだま』L’Echo des Vallées Vaudoises】
 

文化センターでの文献蒐集と史料分析の合間には,ヴァルド派関連史跡を訪ねた.史跡は「谷」の広範囲に点在しており,どれも徒歩で訪れるのは厳しい距離にある.そのため,史跡案内所のニコレッタ・ファヴットNicoletta Favout,ロレンツァ・バロリンLorenza Barolin両氏の協力の下,ヴァルド派史跡の訪問を希望する団体に同行許可を随時依頼し,各団体と行動を共にしながら,アングローニャAngrogna,ルゼルナ・サン・ジョヴァンニLuserna San Giovanni,プラーリPraliでの調査を,さらに単独でボッビオBobbio,ヴィッラールVillarでの調査を敢行した.

最初に訪れたアングローニャは,ペッリーチェ谷の北東部に位置する集落である.史跡案内所が公開している訪問人数/訪問地統計データ(2013年版)によると,当地は1999年から2013年にかけての訪問人数がトッレ・ペッリーチェに次いで多く,「谷」の名所の一つであることがわかる.アングローニャの史跡のうち,ヴァルド派史において特に重要な記憶を今に伝えるのは「シャンフォランの記念碑」であろう.

シャンフォランChanforanとは,オック語もといピエモンテ方言のcampo(野原)とforaneo(広場)の組み合わせを由来とする,中世ヴァルド派の会議場だった地所である.1532年9月12日,ヴァルド派信者たちはこの地に集まり,6日間にわたる会議を行った末,スイスの改革派教会と合同する形で宗教改革運動への参加を決議した.それを記念し,改革運動参加から400年後の1932年に,地元の若手ヴァルド派信者たちの呼びかけで当モニュメントが設置されたらしい.文化センターの写真保管所に残されている設置当時の写真を見ると,多くのヴァルド派信者が完成記念式典(1932年8月28日)に参加しているのが見てとれる.シャンフォランの決議を境にヴァルド派は中世来の教理や慣習の多くを放棄したため,研究者の中にはシャンフォランを「ヴァルド派の終焉」と位置づける者もいる.しかし,現代のヴァルド派からすれば,シャンフォランはあくまで「変化の機会」であり,終着地点ではなく連綿と続く歴史上の通過点の一つなのである.

【シャンフォランChanforanの記念碑(1932年建造):
中央の聖書を模ったレリーフには,左ページにLA BIBLE(聖書),
右ページにSOIS FIDELE(忠実であれ)というヨハネ黙示録第2章10節の文言が,それぞれフランス語で記されている】
 

シャンフォランの記念碑から先,舗装されていない道を進んでいくと,ギエイザ・ドゥラ・ターナGuieiza d’la Tanaと呼ばれる史跡に到着する.これはピエモンテ方言で「洞窟の教会」を意味し,中世期に異端審問官の眼を逃れて「谷」にやってきたヴァルド派信者が,当洞窟を教会に見立て,秘密裏の礼拝を行っていたらしい.入口は非常に狭いが,中はかなり広く,上部から微かに明かりが差し込むほかは完全な闇が広がる空間である.現在は教会としての機能は果たしていないものの,当地を訪れるキリスト教徒が記念の礼拝を行うことがあるようで,今回報告者が同行していたカトリック系の団体「イエスの小さな兄弟たち」Petits Frères de Jesusも,洞窟内で火を焚き,全員で讃美歌を斉唱していた.かつて正統という大義名分の下にヴァルド派を迫害していたカトリック教会であるが,その一団体が世紀を超えて,迫害の対象だったヴァルド派の教会で讃美歌を唄う光景は非常に興味深かった.彼らはヴァルド派牧師とも親密に話をしており,トッレ・ペッリーチェのヴァルド派教会や教会本部では牧師の説明に静かに耳を傾け,和やかに食事の席を囲み,別れ際には一緒に記念撮影もしていた.

カトリック教会とヴァルド派というマクロな二項対立からは中世期の「迫害する者/迫害される者」という図式が浮かび上がり,現在でもその残滓は多少あると聞く.だが,信者個人でのミクロな交流に目を向けると,このように平和な光景を見ることができる.信条の違いから両者が一つになることは難しいだろうが,エキュメニカル運動などを通して同じキリスト教徒としての和解が進み,互いの交流がさらに促進すれば,宗教上の対立は減っていくことだろう.「谷」で深めた自身の研究が,いずれ彼らの平和的関係の構築に何らかの形で寄与できればと願うばかりである.

【洞窟の教会Guieiza d’la Tana:イタリア語では Chiesa della Grotta,フランス語ではÉglise de la Grotteと表記される.
イタリア語やフランス語にも,la tana(伊)やla tanière(仏)といった,ピエモンテ方言のla tanaに似た語は存在するが,
それぞれ「野獣の巣穴」を意味するため,あえて「洞窟」を意味するla grottaやla grotteが用いられている】
 

シャンフォランと洞窟の教会の間に,イングランドの退役軍人チャールズ・ベックヴィスCharles Beckwith (1789-1862) の献金によって建てられた小さな学校跡がある.ベックヴィスは,その半生をヴァルド派支援に捧げた人物で,特に子どもたちの教育と学校建設に心血を注いだ.彼が「谷」に建設した学校は150校を超え,結果として1865年時点での「谷」における識字率は80%以上を記録している.当時のピエモンテ他地域の識字率が50%程度だったことを考慮すれば,数字の高さが計り知れよう.

聖書を信仰の中心とするヴァルド派にとって,それを自ら理解するための言語習得は欠かすことができないため,教育は非常に重要なものといえる.ゆえに彼らがベックヴィスに対して抱く感謝の念は大きく,その事実を示すかのように,上述の学校跡の入り口にはCHARLES BECKWITH LIEVTENT COLONEL ANGLAIS BIENFAITEVR DE VAVDOIS 1837(仏:英国大佐チャールズ・ベックヴィス ヴァルド派の恩人 1837年)と刻まれた表札が掲げられ,トッレ・ペッリーチェのヴァルド派文化センター前の通りに「ベックヴィス通り」Via Beckwithという名がつけられているほか,文化センター内の文書館には彼の肖像画も飾られている.

【ベックヴィスが建設した学校Odin-Bertot(1837年建造):現在は博物館となっている】
 

ペッリーチェ谷の西端にはボッビオ・ペッリーチェBobbio Pelliceという集落があり,ここに「シバウドの記念碑」Monumento di Sibaudが建っている.1686年,当時のフランス国王ルイ14世とサヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ2世がヴァルド派の掃討を決定したことで,同年4月に「谷」のヴァルド派コミュニティはフランス・サヴォイア連合軍によって壊滅させられた.捕虜となった信者たちはスイスに亡命したのだが,3年後の1689年8月,彼らは故郷である「谷」に戻るためにアルプスの山々を徒歩で踏破し,一行が「谷」で最初に辿りついた場所がシバウドSibaudの地なのである.

この出来事は,当時のヴァルド派の指導者アンリ・アルノーHenri Arnaudによる記録『ヴァルド派の谷への栄光の帰還の歴史』Histoire de la glorieuse rentree des Vaudois dans leur valeesに基づいて「栄光の帰還」la Glorieuse Rentréeと呼ばれ,記念碑は栄光の帰還200周年の節目である1889年に設置された(1926年にはアンリ・アルノーの像もトッレ・ペッリーチェに設置されている).同年の新聞を見ると,年間を通して栄光の帰還関連の記事が多く紙面を飾り,まるで壊滅から立ち上がった過去の自分たちを称賛するかのようである.

現在,アルノーの『ヴァルド派の谷への栄光の帰還の歴史』は複数の言語に翻訳されているが,イタリア語版ではフランス語でいう「帰還」rentréeの訳語に,rientroではなくrimpatrioが用いられている.どちらも「帰還」という意味では同じなのだが,後者が採用されたのは,おそらく「再びri祖国patriaへ」という意思がヴァルド派内部に働いたからではないだろうか.「谷」という場所は,彼らにとって帰るべき故郷であり,「谷」と結びつくことによって生まれる地域アイデンティティが,いつの時代になっても彼らを常にヴァルド派たらしめているのかもしれない.

【シバウドSibaudの記念碑(1889年建造):
1689年スイスに亡命していたヴァルド派信者たちが谷への帰還を果たした場所】
 

現在の「谷」には,23堂の教会がある(使用されているものは16堂).ヴァルド派における「教会」は,イタリア語で言うキエーザchiesaとテンピオtempioの2つが存在し,前者(chiesa valdese)が信者の集合体である教会組織を指すのに対し,後者(tempio valdese)は礼拝用の建築物を指す.カトリックの教会が聖なる領域であり,信徒の祈りの場,啓蒙の場であるのに対し,ヴァルド派の教会に同種の要素は一切なく,単に礼拝時の集合場所という意味しかない.繰り返すが,ヴァルド派の信仰において重要なものは聖書であり,聖書さえあれば,礼拝の場所は草地でも,洞窟でも,家の居間でも構わないのである.今月は7堂のテンピオを訪ねたが,どれも非常にシンプルな作りで,装飾もほぼ無いに等しく,聖書の文言がいくつか壁に書かれてある程度だった.

【チャバスCiabàsのヴァルド派教会(1701年建造)】
 

【ルゼルナ・サン・ジョヴァンニLuserna San Giovanniのヴァルド派教会(1806年建造)】
 

【ヴィッラールVillarのヴァルド派教会(1846年建造)】
 

【イル・セッレIl Serreのヴァルド派教会(1876年建造)】
 

【ボッビオBobbioのヴァルド派教会(1880年建造)】
 

【プラーリPraliのヴァルド派教会(1962年建造)】
 

「谷」での研究調査に加え,今月はフランスからの帰国後に執筆した報告者の博士論文要旨 « La formation et préservation de la conscience collective des Vaudois après la Réforme »(仏:宗教改革以降のヴァルド派の集団意識の形成と保持)を「リュブロンの歴史とヴァルド派の研究協会」の紀要La Valmasqueに投稿した.拙稿は2度の査読を経たのちに無事受理され,次号に掲載される予定である.8月も引き続き「谷」での調査を継続するほか,同月30日にボローニャで開催される大黒俊二教授を交えた頭脳循環研究報告会に向けての準備を行っていきたいと考えている.
2014/08/22 13:30