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月度報告書(2014年8月度)有田豊

有田豊


今月も引き続き「ヴァルド派の谷」Valli Valdesi(以下「谷」)にて史料蒐集ならびに研究調査を行い,イタリア到着後約4ヵ月間にわたる研究成果を頭脳循環研究報告会にて発表した.今月の「谷」では研究セミナーや講演会など各種イベントが目白押しであり,報告者もその多くに足を運んだ.

(1)第11回「カトリックとヴァルド派:対立から共存へ」
歴史研究会:「16世紀後期の谷におけるプロテスタント信者,カトリック信者と教会組織」(8月2日)XI Convegno Storico “Cattolici e valdesi : dai conflitti alla convivenza” – “Riformati, cattolici e organizzazioni ecclesiastiche nelle valli nella seconda meta’ del Cinquecento”

(2)エリカ・トマッソーネ牧師/ダニーロ・ムルリア医師講演会
「寂しさの聴取と療法」(8月10日)
Conferenza sul tema “L’ascolto e la cura delle solitudini” Erika Tomassone, pastora valdese, Danilo Mourglia, medica di famiglia e geriatra.


(3)ピネローロ・ヴァルド派教会「8月15日祭」(8月15日)
Festa XV Agosto 2014 della Chiesa valdese di Pinerolo.


(4)若者のプレ・シノド
「新しいもの,秘められたもの,未知のもの.仲介の中で知ること,共有することを学ぶ」(8月23日)
Il pre-sinodo dei giovani “Il nuovo, l’occulto, l’ignoto. Imparare a conoscere e condividere nella mediazione” dalla Fondazione Giovanile Evangelica in Italia.


(5)ラジオ・ベックヴィス・エヴァンジェリカ30周年記念式典(8月23日)
Inaugurazione della mostra “30 anni di Radio Beckwith Evangelica”


(6)ターボル・フス派博物館主催「1415年のヤン・フスと600年後」
(ヴァルド派文化センターおよびヴァルド派研究協会図書館による関連書物展示)
Jan Hus nel 1415 e seicento anni dopo – A cura del museo hussita di Tàbor, con esposizione di libri antichi delle biblioteche della Società di Studi Valdesi e del Centro Culturale Valdese.(6月21日-8月31日)


トッレ・ペッリーチェで2ヶ月間生活し,様々なイベントに足を運んだことで,多くの知り合いができた.人口約5,000人という小さなこの町に日本人が住むというのはとても珍しいようで,1人と知り合いになるとすぐ「日本人がヴァルド派を研究しに来ている」という話が住民の間で広がり,今では町を歩くだけで様々な人から「Ciao, Yutaka ! Come stai ?」(やぁ,ユタカ! 元気かい?)と気軽に声をかけてもらえるようになった.加えてヴァルド派の牧師や信者の方々と交流し,話をしたことで,多少なりとも現代のヴァルド派の集団意識に触れることができた気がする.

ヴァルド派研究協会が発行する紀要 Bollettino della Società di Studi Valdesi や,ヴァルド派文化センターが発行する雑誌 La Beidana に目を通していると,「ヴァルド派のアイデンティティ」に関する研究に出会う割合が少なくない.先行研究によれば,彼らのアイデンティティは大きく分けて3つの要素――歴史,場所,少数派――に見られるという.しかし,報告者が実際に信者の声に耳を傾ける中で感じたのは,21世紀に生きる彼らが思い描くヴァルド派像は画一化されておらず,信者ごとに多様な意識が存在しているということだった.

歴史に基づくヴァルド派の記憶を研究しているブルーナ・ペイロット Bruna Peyrot 氏と対談した際にも「現代のヴァルド派にも集団意識は“ある”のだろうが,今は“眠っている”に等しい状態」という意見をいただき,報告者にもそれは至言に思われた.集団意識は,対他的状況においてこそ表面化し,危機的状況においてこそ強くなるものである.それゆえ,迫害を受けなくなった19世紀以降のヴァルド派の集団意識は,既に潜在化してしまっているのかもしれない.

【夕方のトッレ・ペッリーチェ中心部】


史跡訪問に関して,今月は現地ガイドの方と移動用の車をそれぞれチャーターし,バルツィリアBalziglia,ロドレットRodoretto,ポマレットPomaretto,プラ・デル・トルノPra del Torno,ロラRoràでの調査を敢行した.なお,これらは全て単独によるものではなく,スイスはベルン近郊から「谷」に来ていたツヴィングリ系の改革派教会牧師と合同での訪問/調査となった.最初に訪れたバルツィリア,ロドレットのあるジェルマナスカ谷Val Germanascaはペッリーチェ谷の北西に位置し,トッレ・ペッリーチェからは車で1時間ほどの距離にある.3つの博物館が点在しているが,交通の便が悪いことから,観光客は殆ど行かない場所らしい.

バルツィリアは,1689年8月に亡命先のスイスから帰還(cf. 7月度報告書「栄光の帰還」)したヴァルド派信者たちが,「谷」の奪還をかけてフランス・サヴォイア連合軍にゲリラ戦を挑んだ古戦場である.18,000名からなる連合軍を相手にヴァルド派側は約600名と極めて劣勢だったが,当時は名誉革命関連でフランス国王ルイ14世 Louis XIV の目がイングランドに向いていたこと,サヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ2世 Vittolio Amedeo II がフランスの衛星領という立場から自国を脱却させたいという考えを持っていたこと,近隣のプロテスタント諸国が援軍を派遣してヴァルド派に加勢したことなどが幸いし,ヴァルド派は1689年冬から1690年5月までの約半年にわたる戦闘に勝利,自分たちの「祖国」を取り戻すことに成功した.「山の博物館」は1939年に「栄光の帰還」250周年を記念して設置され,1686年の追放から1690年の奪還に至るまでの歴史,中でもバルツィリアでの戦いに関するものを中心に紹介している.

【バルツィリアBalziglia:標高1,340m,冬になると豪雪に閉ざされるこの地で,ヴァルド派は半年間戦いぬいた】
 

ロドレットには,18世紀から19世紀の「谷」における暮らしぶりを展示,紹介する民俗博物館「祖父母の家」がある.このような名称が付された理由は,おそらく「祖父母世代のピエモンテの一家庭を再現した」というコンセプトから来るものなのだろう.博物館自体はベックヴィスが建てた学校を改造して作られており,台所や寝室,居間,納屋などが再現されていた.かつて実際に使われていた調度品や農耕用具などが展示されていることから,その忠実さたるや傍目には「今も人が住んでいる」と言われても疑いようのないほどで,地域に根ざした生活様式を保存,公開している点にはエコミュゼの実践が見て取れた.

バルツィリアやロドレットなど,複数の家庭/家屋が集まっている場所はボルガータborgataと呼ばれ,「谷」における集落の単位を成している.「谷」には多くのボルガータが点在しているが,高地では冬の寒さが厳しく,生活の不便さも相俟って多くの家庭がより標高の低い麓や都会へと移住する昨今,過疎化するボルガータが増えてきているという.ロドレットにもヴァルド派の教会は建っているが,住人が少ないことから教区牧師はおらず,2年前から使われていない.内部に入ってみると,しばらく掃除も手入れもされていないことが一目瞭然であり,入口付近の机上には2年前に発行された教会新聞が放置されたままになっていた.

【祖父母の家La meizoun de notri donn内部:かつて実際に使用されていた調度品が展示してある】
 

ポマレットは,ジェルマナスカ谷の東側,キゾーネ谷Val Chisoneとの境目に位置する.ここにはかつて「スコラ・ラティーナ」と呼ばれるヴァルド派の高等教育機関があった.Scuola Latinaという名称からラテン語を習う学校かと思いきや,実際は高等学校を卒業した者が学問を続けるための場で,法学や医学など,より専門性の高い教育が行われていたという(古来より学問はラテン語で行われてきたため,普遍性と高等教育の象徴として Latina という語を学校名に付したのだとか).

1986年に廃校となって以来,博物館および図書館として使われており,特に図書館はオック語関連の書物を中心に取り揃えてある.報告者が日本人と知った司書の方が『オック語分類単語集』なるオック語―日本語の単語帳を見せて下さった.名古屋市立大の佐野直子准教授が編集したものであり,実は報告者も同単語帳を持っている.フランスでAEVHLの最高責任者ヴォンスリウス氏が「ポマレットで日本語とオック語の辞書を見かけた」と仰っていたが,それはきっとこの単語帳のことなのだろう.

【スコラ・ラティーナScuola Latina:1階が博物館,2階が図書館になっている】
 

プラ・デル・トルノは,先月も調査で訪れたアングローニャ谷の最深部,標高1,024mの地点に位置し,人も殆ど住んでいない集落である.ここには,中世のヴァルド派説教師バルバBarbaたちが築いた「ヴァルド派説教師の寄宿学校」Coulège dei barbaが残っている.14世紀に建てられたとされるこの学校では,かつてバルバたちが寝食を共にしながら聖書研究を行っていたらしい.

バルバbarbaとはピエモンテ方言で「小父」を意味する.これはカトリック教会で教皇および聖職者を「父」papaと呼ぶのに対し,ヴァルド派では「父は神のみ」(マタイ福音書第23章9節)という意識があることから,あえて「父」を避けて「小父」にしたのだという.学校の中に入ってみると,内部は天井が低く,非常に狭い上,家具などの調度品は殆どない質素な作りであった.中世当時からここに設置されているらしい大きな石の机の上には,ガラスケースに入った聖書が開かれていた.

【中世ヴァルド派説教師の寄宿学校Coulège dei barba:
フランス語のcollègeは「中等学校」,イタリア語のcollegioは「寄宿学校」と,
それぞれ表記は似ていても意味は異なり,ピエモンテ方言の coulège は後者の意味になる】
 

ロラは,トッレ・ペッリーチェを中心としたプラ・デル・トルノと点対称の位置,ペッリーチェ川の南にある.ここは,以前報告者が執筆した雑文「ヴァルド派のレジスタンス」(『流域』,青山社,2013年,pp.20-23.)で取り上げた,近代ヴァルド派のレジスタンス活動の拠点となった場所である.

1655年4月,ピアネッツァ侯爵率いるサヴォイアの軍隊がヴァルド派殲滅を目的に「谷」を急襲した時,自ら武器を手にゲリラ部隊を組織して,敢然と軍に立ち向かった一人の信者がいた.ジョジュエ・ジャナヴェルJosué Janavel,ヴァルド派の農民兵士である.ロラは彼の出身地であり,当地をレジスタンス活動の拠点に定めて,近隣の集落が次々と蹂躙されていく中,「谷」が完全に陥落する最後の時まで軍に抵抗を続けた.それゆえジャナヴェルは,ヴァルド派の英雄として,今日では信者間で最も讃えられる存在となっている(根拠となるアンケート結果もある).

今もロラにはジャナヴェルの生家が残っていて,博物館として一般開放されており,訪れる観光客も多いという.例にもれず報告者も彼の生家を訪れたのだが,バルバの学校同様に内部は質素な作りであり,壁に掘られた有事の脱出用抜け穴は,ゲリラ戦が昼夜問わず気の抜けないものであったことを物語っているようだった.

【ジョジュエ・ジャナヴェルの家La Gianavella】
 

先月に引き続き,今月は4堂のテンピオを訪ねた.1848年以前のヴァルド派は標高700m以上の地域(ゲットー)でしか信仰活動を許されておらず,貧しさのために教区ごとのテンピオを建設することもできなかった.しかし1848年2月17日,サルデーニャ国王カルロ・アルベルトCarlo Albertoの勅令によってイタリアでの市民権を得たヴァルド派は,同年以降に700m以下の地域ひいては「谷」の外でも自由に活動を行うようになり,イングランドやオランダからの資金提供も得て,次々とテンピオを建設していく.それゆえ「谷」のテンピオは多くが19世紀以降に建設されており,新古典様式を感じさせる外観のものが多いように思われる.

【ロドレットRodorettoのヴァルド派教会(1845年建造)】
 

【ロラRoràのヴァルド派教会(1846年建造)】
 

【コッピエーリCoppieriのヴァルド派教会(1861年建造)】
 

【プラ・デル・トルノPra del Tornoのヴァルド派教会(1877年建造)】
 

この2ヶ月間,「谷」でのフィールドワークを通して史跡や博物館,テンピオなどを実際に訪問したことで,どれだけ本を読んでも実感として掴めなかった谷の地理や現状が非常によくわかった.図書館での文献蒐集や机に向かっての勉強も大事だが,現地在住の利点を生かし,足を使って情報を得て回ることも研究には欠かせない要素であると思う.ムッツァレッリ教授からも,イタリアにいる間は家に籠らず外に出るよう指導を受けたので,今後もこういったフィールドワークはできるだけ継続していきたい.

8月30日(土)には,日本からいらっしゃった大黒俊二教授,早稲田大学の高橋謙公氏を迎えての研究報告会がボローニャで開かれた.被派遣メンバー3名と大黒教授の計4名が,それぞれ自身の研究成果を以下の順序,テーマで報告した.


  • 原田亜希子氏「16世紀教会国家体制下におけるボローニャ都市政府―16世紀セナートの決議記録に対する一考察―」
  • 有田豊「19世紀以降のヴァルド派における集団意識の形成と保持」
  • 大黒俊二教授「マッダレーナ・ナルドゥッチの遺言書(1476年)」
  • 中谷良氏「13世紀ルチェーラのムスリム共同体とキリスト教徒の関係――アンジュー家文書局登録簿のクーリア側の紛争仲介の文書から」


1970年代には乏しかった日本国内におけるイタリア史研究も,ここ40年近くの間に大きく進歩し,イタリアについて様々な研究が行われるようになった.その多様性は、上記テーマを見ても明らかであろう.そして,現地で一級の史料を目にし,一線の研究者たちと交流しながら昇華された研究は,きっと日本や世界に大きな利益をもたらすに違いない.研究会終了後は,19時からマッジョーレ広場近くにあるピッツェリアにて打ち上げを開催.イタリア談義に花が咲いた一時だった.

【ボローニャでの頭脳循環研究報告会(8月30日)】

 
9月初旬には「谷」での調査を終えてボローニャに戻るため,やり残しがないよう研究に励むと共に,帰還後はムッツァレッリ教授,マッツォーネ教授に「谷」での調査結果を報告する予定である.
2014/10/07 13:00