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月度報告書(2014年8月度)原田亜希子

原田亜希子


雨が多く肌寒い秋のような天気が続いた7月から一変し、8月に入ると本格的に夏がやってきた。

ここボローニャの8月は毎年ボローニャの最も悲しい事件の追悼イベントで幕を開ける。それは1980年、今から34年前の8月2日にボローニャ駅で起きた爆弾テロ事件である。34年前の8月2日も今年同様土曜日だったことから、8月の第一土曜日はまさにヴァカンスに出かける人でボローニャ駅はあふれていた。そんなボローニャ駅の朝10時25分、待合室に置いてあった爆弾が爆発した。天井は崩れ、死者85人、負傷者200人以上というボローニャ史上最悪の大惨事となった。現在もボローニャ駅には10時25分でとまったままの時計が残り、またこのときの被害者の名前の刻まれたモニュメントが街中の至る所に残っている。

そして8月2日、事件の起きた日には毎年この悲しい事件を忘れないために様々なイベントが行われている。今年はまず8時半に街の中央広場Piazza Maggioreにある市庁舎にてボローニャ市代表と8月2日の事件の被害者家族の会代表との会見が行われた後、Piazza Maggioreから駅へと続くVia Indipendenzaをイタリア各地の都市の旗を伴った行進が行われた。行進の先頭で被害者家族の会が掲げていた横断幕に書かれていた通りこの事件を「ボローニャは忘れない」ことの表明として、行進には多くの市民が参加していた。中でも印象的だったのは、実際にこの事件を目にした世代の人だけではなく、若者も多く参加していたこと、そしてVia Indipendenzaの端から端まで続く列の長さである。ボローニャでは時にデモ行進が行われているが、私はこれほど多くの人が参加した行進は見たことがなかった。

その後行進が駅に到着すると、駅前では引き続き追悼式典が行われた。そして被害者家族の会代表パオロ・ボロニェージ氏が「あの日の沈黙と埃との戦いは今もなお続いている」と強い決意とともに演説を行った。この事件の実行犯は捕まり長い裁判が続いているとはいえ、今もなお事件の首謀者に関しては闇の中なのである。その後事件の起きた10時25分には1分間の黙祷がささげられた。

さらに、この日の夜には事件の数年後から毎年続けられているという恒例のコンサートがPiazza Maggioreにて行われた。コンサートはちょうど8月いっぱい広場で行われている野外映画上映のためのスクリーンを使い、音楽に映像も交えた独特なものであった。そしてこの様子はイタリアの国営放送Rai でも放送され、ボローニャだけではなくイタリア全国でこの事件が思い出されることとなった。


「Bologna non dimentica(ボローニャは忘れない)」


イタリア各都市の旗を伴った行進の様子


駅前の時計。事件が起きた10時25分でとまったままである。


駅前での追悼式典の様子


現在のボローニャ駅待合室にあるモニュメント

なお、その4日後の8月6日には同じく忘れてはいけないわが国の歴史である、広島の原爆に関して、イタリアでも新聞やテレビで特集が組まれ、ここボローニャでは日本文化を紹介する団体Nipponica主催でボローニャ市内のカヴァティッチョ公園にて灯篭流しが行われ、原爆犠牲者の追悼式が行われた。
 

ボローニャ、カヴァティッチョ公園での灯篭流しの様子

8月のもうひとつの重要な行事は、8月15日の聖母被昇天の祝日Ferragostoである。8月5日の「雪の聖母」の奇跡の記念日から15日にかけて、聖母に関わる教会では毎年様々なお祭りが行われている。

中でも私はボローニャ近郊の街Centoのカプチン会修道院付属Santuario della Beata Vergine della Rocca(岩窟の聖母教会)のお祭りに参加した。Centoはちょうどボローニャとフェッラーラとの境界に位置し、現在はフェッラーラ県に属しているが、ポルティコの続く街の様子や、伝統料理、また言語的にもフェッラーラよりもボローニャの影響を強く感じる街である。歴史的にも、もともとCentoは12世紀にボローニャ司教によってこの地で開拓を行っていた農民たちの集落として認められたことに端を発している。河川に近く、肥沃な土壌を生かして、その後耕作地として確立していった。当初はPieve di Centoとともにひとつの集落であったが、14世紀には長い論争の結果Pieve di Centoが分離し、独立することになった。

そしてこのPieve di Centoまでがボローニャ県に属し、Centoがフェッラーラ県となったのは、1502年に教皇アレクサンデル6世が娘ルクレツィアとフェッラーラの領主エステ家のアルフォンソとの結婚に際して、持参金としてCentoをフェッラーラに譲渡したことにある。その後フェッラーラが教会国家(教皇領)に合併された1598年に再びCentoも教皇領に編成されることとなるが、現在もCentoがフェッラーラ県に属しているのはこのようないきさつの結果なのである。またCentoは16世紀から17世紀にかけて活躍した画家Giovanni Francesco Barbieri、通称Guercinoの出身地としても有名である。


街の中央広場にあるGuercinoの彫像

今回私がこの場所を訪れたのは、Centoの岩窟の聖母教会にて8月7日から大々的に行われているお祭りを見に行くこともさることながら、もうひとつの理由はCentoが2012年にエミリア・ロマーニャを襲った地震によって被害を受けた街のひとつであったことである。

マグニチュード6のこの地震は、耐震設備を備えていない石造りの建物が多いイタリアに大きな被害をもたらした。特に被害が大きかったのが屋根の高い教会や、伝統的家屋である。ボローニャ近郊にもいまだに立ち入り禁止になったままの教会を時々目にするが、ここCentoでも実際に補強されている建物が至る所に見られ、また鐘楼の先端は倒壊の危険性からわざとはずされているところが目立った。また先のGuercinoの作品を多く所蔵する絵画館も建物の倒壊の危険から立ち入り禁止のままで、いまだ閉鎖されている。

今回お祭りに訪れた教会も屋根が崩壊したため、現在は修道院の中庭を使って夏場は外で、冬場は仮設のプレハブの中でミサを行っていた。またプレハブの中には倒壊した教会から一番に避難されたこの教会の重要な聖母のイコンがまつられていた。このイコンがどの時代に誰の手によって描かれたものかは明らかになっていないとはいえ、おそらく15世紀ごろのものといわれているようである。

お祭りに来ていた街の方が、このイコンにまつわるお話を教えてくださった。
それによるとこのイコンは近世の間、教会の近くのCentoの城塞の中に置かれており、その場所は当時牢獄として使われていたという。ある日このイコンの近くでゲームをしていた看守の一人が何かのきっかけで持っていた矢、もしくは玉を聖母に向かって投げたところ、聖母の鼻に命中し、イコンから本物の血が流れ始めた。聖母のイコンの奇跡は瞬く間に街中に知れ渡り、そしてそのとき流れた血が今もイコンのちょうど聖母の鼻から口にかけて赤いシミとなって残っているという。

そして聖母被昇天の日には毎年このイコンとともに、街中を行進し、今でもイコンは街の守り神としてCentoの人々にとっての信仰の対象になっている。2年前の地震の直後はこのお祭りも縮小されていたそうだが、今年は街の人のボランティアによって1週間の間毎晩、簡単な食事を提供し、さらにコンサートや映画など様々なイベントを行っていた。私が訪れた日も、夜の9時には大勢の地元の方が集まり、非常に活気のあるお祭りだった。


補強された建物が至る所に見られるCentoの街並み


先端が倒壊の危険からはずされている鐘楼


臨時プレハブの中の祭壇の様子


血を流したといわれるイコン

なお、一般的にはイタリアの8月はまさしくヴァカンスの季節である。ボローニャの街からも学生やボローニャ人が姿を消し、外国人の観光客が目立つようになった。文書館も8月の1週目までは短縮開館していたが、2週目からは完全に閉館となった。またお店の多くもヴァカンスのために閉まり、交通機関も8月いっぱいは土日の臨時ダイヤが適応された。そのため、8月は主に自宅にて今まで文書館で調査を行った史料の整理を行った。また8月30日には大黒先生を交え、ボローニャにて研究会を行うことになっていたため、発表の準備に向けて今までの研究状況と今後の研究の方向性をまとめる作業を行った。

そして8月30日には、ボローニャの中心部にあるイエズス会の施設Centro Poggeschiの場所をかりて、大黒先生、有田氏、中谷氏、そしてこの時期ちょうどイタリアに滞在中であった早稲田大学の博士課程の院生を交えての研究会を行い、それぞれがこれまでの研究状況を報告しあった。発表の準備をすることでこれまでの研究をまとめるきっかけとなり、また発表後の討論では今後の可能性も含めて貴重なアドバイスをたくさんいただくことができて、研究会は大変有意義なものであった。


研究会の様子
2014/10/07 13:30