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月度報告書(2014年8〜9月度)中谷良

中谷良


8月のボローニャは今までの盛況な様子と打って変わって、チェントロから人の姿があまり見られなくなった。多くの住民がボローニャを離れて夏の長期休暇を楽しむからである。よって、大学やその附属図書館も閉館になる場合もほとんどであり、ボローニャでの研究は滞った。そのため、私もこの機会を利用し再度ルチェーラでのフィールドワークを行った。

今回のフィールドワークでは、ルチェーラで開催される聖母マリア崇敬の祝祭参加が主な狙いである。この祝祭は8月13日から17日までの5日間続き、聖母マリアに関わる祝祭は14日から16日のフェラゴスト(Ferragosto)を挟んだ時期にあたる。ルチェーラにおける聖母マリア崇敬の高まりは、1300年の同市のムスリム共同体崩壊を起源としている。ムスリム共同体への攻撃はバルレッタのジョヴァンニ・ピッピーノによって8月15日から25日の間に行われた。後述する聖母マリア像はその彼の手によって発見されたものだと18世紀前半に開催されたルチェーラの市議会で決定されている。

祝祭の中心は、街の中心部にある司教座大聖堂とその前のドゥオーモ広場(Piazza Duomo)で開催された。14日の夜に大聖堂内で聖母マリアに関する式典が行われるのだが、ドゥオーモ広場では音楽隊による演奏が行われ日が明るい時間帯からすでに活況を帯びていた。19時30分開始時には大聖堂は信徒や旅行者で溢れかえり、広場も多くの人々で埋め尽くされていた。

大聖堂内に奉納されている黒い聖母マリア像は、すでにその祭壇から外されて内陣近くに移されている。19時30分前には司教がその他の聖職者たちをひきつれて司教館から大聖堂内に移動した。大聖堂内部では荘厳な雰囲気の中、司教から聖母マリア像に対して鍵(Chiavi)が手渡され、都市を聖母マリアに委ねる旨が司教を通じて宣言された。その後、聖母マリア像は教会外にかつぎだされ、広場を一周するのである。この鍵を聖母マリア像に献上する習わしは、ナポリ国王カルロ2世が1304年にルチェーラを訪問した時に彼自身の手によってなされたことが発端とされている。

 
写真1: ドゥオーモ広場における音楽隊による演奏。


写真2: 大聖堂内部。


写真3: 司教による聖母マリア像への鍵の授与。

行進は二日後の16日に行われた。多くの人々ともに聖母マリア像は市中を練り歩いた。ドゥオーモ広場から出発した聖母マリア像は、チェントロ・ストーリコの外周(つまり、かつて城壁があった場所)にあるアルド・モロ通り、ナポリ通り、11月4日通り、ジュゼッペ・ガルバルディ通り、ナポレターナ・バッタリア通りを反時計周りに移動した後、チェントロ・ストーリコの中心部分を横断しているジャンノーネ通りに入り、再びドゥオーモ広場に戻ってきた。行進を見ていた人々の熱狂的な様子は今でも印象的である。とりわけルチェーラ市民の年配の方々は、この祝祭に対して大きな自負心をもっている様子であった。市民の一人は「ルチェーラはカトリック教会にとって非常に重要な都市だ」と自慢げに語っていた。

13世紀前半にシチリア島からルチェーラに強制移住されたムスリムは、カピタナータ地域のキリスト教徒との生活圏を共有しながら約80年という歴史を紡いできた。史料から見えてくる当時のムスリム共同体の姿は、近隣のキリスト教徒社会から孤立した異教徒集団ではなく、各々の利害関心に基づいて競合関係や協調関係を多様に展開する地域的権力の一つを担っていた。そこでは単純に他宗教間の共存、共生、もしくは融合という言葉で言い表すことのできない地域社会の一端が看取できるのである。プーリア地方北部のカピタナータ地域は、ナポリやパレルモのような古代から現在にかけての政治的・文化的中心地を擁しなかったが、絶えず他地域からの異文化集団や他民族集団を受入れ、彼らとの対立や統合を経て特有な歴史的空間を形作ってきた。ムスリム共同体崩壊後には、ルチェーラはその崩壊を祝福する聖母マリア崇敬の中心地となり、それが現代にいたるまでルチェーラという都市のアイデンティティを形づくる重要な要素となっている。


写真4: ドゥオーモ広場前のイルミネーション。


写真5: 市中をまわる木製像の聖母マリアとイエス。


写真6: フェラゴスト日の司教による典礼。

9月になると帰国の準備に忙殺された。帰国前には、私のボローニャでの研究生活においてお世話になったピオ先生とムッザレッリ先生の両氏に挨拶しに赴いた。そこで今回の派遣での研究内容の成果をつたえ、今後の研究方針について助言をいただいた。とりわけピオ先生には今回の派遣において非常にお世話になった。面談中にうまくイタリア語で自身の言いたいことを表現できなかったにも関わらず、ピオ先生は根気強く私の言いたいことを理解しようと努めてくださった。この場でも重ねてお礼申し上げたいと思う。

約10ヶ月にわたるボローニャでの生活は、長期留学の経験のない私にとって困難の連続であった。ほとんどの困難が私の言語能力の欠如に起因するものであったが、その都度友人、旅先で出会った人々、一緒に住んでいた同居人たちに助けられた。そうした困難の一つ一つが、たとえそれらが些細なものであったとしても、私にとって貴重な経験となったことは確かである。今回の派遣ではルチェーラのムスリム共同体の研究から13世紀後半のカルロ2世統治期全般の研究へとシフトする結果となった。後者の研究に関しては今後さらに深化させていくつもりである。


写真7: アシネッリの塔からのボローニャ全景。
2014/10/07 13:40