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頭脳循環を加速する若手研究者戦略的海外派遣プログラム~EU枠内外におけるトランスローカルな都市ネットワークに基づく合同生活圏の再構築

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月度報告書(2014年10月度)犬童芙紗

犬童芙紗


10月3日、ドイツ統一の日、ビーレフェルトの旧市庁舎の前には、黒赤金のドイツ国旗と並んで、緑白赤の三色旗が立っていた。 

 
写真1:10月3日、ドイツ統一の日の旧市庁舎

ドイツ国旗の隣に立っているのはイタリアの国旗だろうか?
―いえ、緑白赤の三色旗はビーレフェルトが所在するノルトライン=ヴェストファーレン州の州旗である。

ノルトライン=ヴェストファーレン州は、1946年に当時イギリス軍の占領地域であったラインラント州北部とヴェストファーレン州を併合し、さらに1947年にリッペ州を併合して成立した州である。この緑白赤の三色旗は、 旧ラインラント州の緑白と旧ヴェストファーレン州の白赤を組み合わせてできたものである。

ドイツ国旗とノルトライン=ヴェストファーレン州旗が立っている場所には、普段は、赤と白の旗が1本ずつ立っている。

 
写真2:普段の旧市庁舎前の様子。ビーレフェルトのシンボルカラーである赤と白の旗が1本ずつ立っている。
これは7月に撮影した写真で、テラスの手すりが赤と白の花で覆われているのが見える。

赤と白は、ビーレフェルトのシンボルカラーである。
これは、かつてのビーレフェルトの領主ラーヴェンスベルク伯家(Grafschaft Ravensberg)の紋章のカラーに由来する。

 
写真3:Sparrenburg。中世にラーヴェンスベルク伯によって築城された要塞で、ビーレフェルトのシンボルとなっている。
要塞の頂上には、ラーヴェンスベルク伯家の紋章を表す旗が掲げられている(7月に撮影)

ビーレフェルトでは、様々な所で「赤白」を目にする。

 
写真4:10月初旬、旧市街の聖ニコラウス教会裏の広場。赤と白の花絨毯が広がっていた。

さて、前置きが長くなったが、今月は28日にビーレフェルト大学にて、大阪市立大学とビーレフェルト大学共同の国際共同セミナーが開催された。 

 
写真5: 筆者の研究室の扉に、エップレ教授の助手の学生が、国際共同セミナーを告知するポスターを貼ってくださった。

今回の国際共同セミナーのために、大阪市立大学の大場先生、大黒先生、北村先生、福島先生、海老根先生、草生先生、および現在ボローニャに滞在中の若手研究者の有田氏と原田氏がビーレフェルトにいらっしゃった。

有田氏と原田氏はセミナーの前日27日の午後にビーレフェルト入りし、筆者自ら大学のキャンパスおよび市内の主な見所、旧市庁舎、旧市街の聖ニコラウス教会(Altstädter Nicolaikirche)、新市街の聖マリア教会(Neustädter Marienkirche)を案内して差し上げた。両氏とも、ビーレフェルト大学のキャンパスの構造の機能性に強い印象を受けておられた。両氏によると、ボローニャ大学は、ボローニャの都市全体が大学のキャンパスになっているかの如く、町の至る所にキャンパスや大学の附属施設が散らばっているという感じだそうだ。つまり、キャンパスや図書館の間を移動するのに、町中を巡らなければならないという。

また、イタリアのカトリック教会が支配的な土地を生活基盤としている両氏が、ビーレフェルトの聖ニコラウス教会と聖マリア教会の両プロテスタント教会の存在感の大きさに驚いていたことも印象的であった。プロテスタント圏とカトリック圏では、プロテスタント教会とカトリック教会の存在感が正反対だということを教えられた。ビーレフェルトの二大教会である聖ニコラウス教会と聖マリア教会は、それぞれ14世紀と13世紀、つまり宗教改革によってプロテスタント教会が成立する以前に建設された。すなわち、両教会は、本来はカトリック教会であり、16世紀にビーレフェルトがプロテスタント都市になった後、プロテスタント教会に転用し、そのまま利用し続けられているのである。聖ニコラウス教会と聖マリア教会に対する両氏の反応を見て、そのことに改めて気づかされた。両氏とともにビーレフェルトを巡りながら、お互いの近況や研究環境について報告し合うことを通じて、交流を深めるとともに、新たな刺激を得ることができ、充実した時を過ごすことができた。 


写真6:ビーレフェルトの町並み(7月に撮影)。
左のほうに見える緑色の尖塔が旧市街の聖ニコラウス教会、右のほうに見える2本の尖塔を持つ教会が新市街の聖マリア教会である。

大阪市立大学の6名の先生方とは、セミナー当日28日の午前中に合流した。その日の午前中は、エップレ教授とともにセミナーについて打ち合わせを行った後、一同エップレ教授に案内されて、史学科が入居しているX棟の図書館、X棟の建物周辺、およびメインビルディングを見学した。

国際共同セミナーは、28日13時から18時にかけて開催された。セミナーでは、ビーレフェルト大学からはアーリングハウス教授とギルゲン氏が、大阪市立大学からは北村教授、有田氏、筆者が研究報告を行った。

セミナーのプログラムは以下の通りである。

  • Prof. Dr. Franz-Josef Arlinghaus (Bielefeld University), “How to talk with citizens? Writing and forms of communication between councilmen and citizens in late medieval Cologne”
  • Dr. Yutaka Arita (Osaka City University), "Collective Consciousness on the Waldenses after 1848”
  • Dr. Fusa Indo (Osaka City University), "Hamburger Singakademie, Charity Concerts and Society in the Nineteenth- and Twentieth-Centuries”
  • Prof. Dr. Masafumi Kitamura (Osaka City University), "The Forest Settlement by Bruno Taut in Past and Present”
  • Dr. David Gilgen (Bielefeld University), "The location of Innovation and Commons. Localities and Regional Varieties of Capitalism in post-ricardian Globalisation." 

まず、アーリングハウス教授が中世後期のケルンを例に、中世ヨーロッパの都市の市参事会と市民との間のコミュニケーションにおけるwritingの機能について論じた。writingは、ある集団や共同体全体の意思を体現する機能、および離れた人びととの間のコミュニケーションを媒介する機能を有し、中世後期の都市社会をまとめるのに不可欠な要素となったという点が指摘された。

続いて、有田氏によって、イタリアのピエモンテ地方の「ヴァルド派の谷」を拠点としていたヴァルド派の信仰が1848年に信仰の自由を得、イタリアの他の地域、さらにイタリア国外(フランス、ドイツ、スイス、北米等)に広まって以降のヴァルド派信者の集団意識の形成について、自身のフィールドワークでの成果をもとに、研究報告を行った。ヴァルド派信者のアイデンティティが、「谷」の内部で生まれ「谷」で生活している人びと、イタリア国内であるが「谷」の外で生まれ「谷」の外でヴァルド派信者として生活している人びと、さらにイタリア国外でヴァルド派信者として生活している人びととの間で異なっており、ヴァルド派信者それぞれの自己認識は一様でないことが示された。そこから、一つの集団の中で形成される意識の多様性・複雑性も見えた。

 
写真7:国際共同セミナーの一コマ

次に筆者が、19世紀から20世紀初頭にかけてのハンブルク・ジングアカデミーの公開演奏会の収益金の寄付先の変遷から、当時の会員たち、すなわち市民の社会に対する関心および彼らの社会的視野の変化に関する考察を行った。ハンブルク・ジングアカデミーは、1819年に設立された混声合唱協会であるが、1835年から毎年公開演奏会を開催し、演奏会の入場券やテキストの販売を通じて得た収益金を慈善目的のために寄付し、資金面において市民の慈善活動に寄与していた。ジングアカデミーによる演奏会の収益金の寄付先は、時期によってある程度決まっていたが、1900年頃を境に、市民の有志で設立・運営された慈善団体・施設から教区の福祉に変化した。その変化の要因としては、当時のジングアカデミーの会員たち、すなわちハンブルク市民の社会に対する関心や社会的ネットワーク、および当時の都市における社会福祉を巡る状況の変化が考えられる。報告後の質疑応答では、社会国家の形成、社会福祉の担い手の変化、労働者層の社会的地位の向上と自立との関連性に関する質問を受け、今後の研究を展開していく方向性に関する様々な助言をいただくことができた。

その後休憩を挟んで、北村教授が建築家ブルーノ・タウトの設計に基づいて1920年代に建設された「森のジードルング」の過去と現在における社会的な意味の変化に関する研究報告を行った。「森のジードルング」は、現在もタウトが設計した当時のデザインを保持し、住宅として利用されているが、住宅を巡る社会的文脈は、過去とは異なる。北村教授は「森のジードルング」の中の一戸に2010年3月から2011年1月にかけて住まわれたことがあり、その際に撮影された写真を示し、自身の体験も交えながら報告を行った。

最後に、ギルゲン氏が、グローバル経済の時代における地域性や地域的多様性の発生に関する理論に関して報告した。経済史を専門とするギルゲン氏の報告は理論的な枠組みであったため、会場からはその理論を形成する基となる具体的な事実や例の提示を求める意見が出た。それに対して、ギルゲン氏は、経済活動に必要な情報の交換やネットワークの形成は3kmという狭い範囲で行われるものであるという点を指摘した。

全ての報告が終わった後は、全体討論に移り、本セミナーのテーマ「グローカリゼーションの時代におけるヨーロッパ」(Europe in Times of Glocalisation)に関連して討論が展開された。そこでは、世界のある場所で生じた現象が他の場所でも同時並行的に生じ得ただろうか、地域を超えて共通して見られる一般性とある地域にしか見られない特殊性はどのように結びつけられるだろうか、グローバル化と地域による分化はどのように関連しているだろうか、といった問いが出された。

国際共同セミナーは盛会のもと終了した。ご多忙な中、セミナーの開催にご協力してくださったエップレ教授、セミナーに関する様々な雑務を快く引き受けてくださった秘書のJutta Wiegmann氏およびエップレ教授の学生助手(Hilfskraft)のNiklas Regenbrecht氏に感謝する。
 
セミナーの翌日29日には、エクスカーションのために大阪市立大学の先生方およびボローニャからの若手研究者とともにハンブルクに移動した。

 
写真8:ハンブルク市庁舎。カモメが一斉に飛び立った瞬間を撮影

ハンブルクでのエクスカーションは30日の9時から17時まで丸一日かけて行われ、steg社の事業主Rösner氏および同社不動産事業部部長Reinken氏の案内で、ジェントリフィケーション(Gentrification, 都心の比較的所得の低い層が住んでいた区域の再開発による高級化)が進むザンクトパウリ(St. Pauli)、都心近くの再開発地区ゲンゲフィアテル(Gängeviertel)、市南部のヴィルヘルムスブルク(Wilhelmsburg)駅のそばに建設された実験的な住宅群、および市の南郊外に位置するハールブルク(Harburg)地区の再開発が進められている区域フェニックス・フィアテル(Phönix-Viertel)を巡った。steg社は、1989年にハンブルク市政府が100%出資する公益企業体として設立され、2003年に私有化された、都市の再開発事業を手がける会社である。まず9時にSchulterblatt 26にあるsteg本社に集合し、Rösner氏とReinken氏からその日のプランについて説明を受けた。その後すぐにエクスカーションが始まり、まず、ザンクトパウリのかつて屠殺場があった付近を視察した。


写真9:かつて屠殺場として使われていた建物。現在は芸術家たちがアトリエとして利用している。


写真10:こちらの巨大な建造物は、第二次世界大戦中に建設された防空壕(Bunker)。
戦後は Nordwestdeutscher Rundfunk(NWDR)の放送基地として利用されていた時期もある。
取り壊すのは、莫大な経費と労力を要し、周辺を広範囲に渡って封鎖する必要が生じるため、極めて難しい。


写真11:Rindermarkthalle。
"Rind"は「牛」(Rinderは複数形)、"Markt"は「市場」、"Halle"は「ホール」という意味である。
かつてはこの場所で家畜の売買が行われていた。現在はショッピングセンターが立ち、
EDEKA、ALDI(以上、全国チェーンのスーパーマーケット)、
Budnikowsky(ハンブルクを中心に北ドイツに展開するドラックストアのチェーン)の店舗が入居している。
訪れた当時は、オープンして1ヶ月ほどしか経っていなかった。

その後、都心近くのゲンゲフィアテルに向かった。ゲンゲフィアテルは、17世紀初頭から狭い路地に沿って多層階の集合住宅が密集する住宅地として発展した。そこには労働者をはじめ低所得者層が多く居住しており、19世紀には、市民層の間で、風通しの悪さと人口密度の高さ故に生じる衛生環境の悪さ、および治安の悪さが問題視されていた。そして1892年のコレラ流行を機に、市政府において、衛生環境の改善に向けた再開発を巡る議論が生じ、20世紀初頭に再開発が始まった。ゲンゲフィアテルは、労働者層や芸術家が集まり、サブカルチャー形成の拠点となったが、近年、再び本格的な再開発が進められている。再開発事業において、古くから立っている建物は、もとの外観をなるべく保全し、内部を近代的に改装するような形式で、住民や芸術家の意見も聞きながら改築が進められている。改築後の建物は、賃貸用に区分けし、付近の相場よりも低い価格で住宅、アトリエ、店舗として貸し出される予定である。

 
写真12:ゲンゲフィアテルの作曲家ヨハネス・ブラームス(Johannes Brahms, 1833-1897)の生家があった場所に立つ記念碑。
ブラームスの生家は1943年に空襲によって破壊され、家そのものは残っていない。
ブラームスは、後半生はウィーンを拠点として活動し、ウィーンで没したが、生まれはハンブルクである。
彼の父は、ホルン、コントラバス、フルートの演奏者として、家計を支えていた。

写真13:ゲンゲフィアテルの芸術家たちがアトリエを構える建物の間を進む。

改築工事を進めている最中の建物は、当然、立ち入り禁止ではあるが、今回、その内の一つの建物の内部を特別に見せていただけることとなった。

 
写真14:改築が進められている最中の建物の表側。こちらの建物の内部を見学させていただけた。


写真15:内部を見学させていただいた建物の裏側の壁は白一色であった(写真の左側の建物)


写真16:工事が進められている最中の室内

その後、ゲンゼマルクト(Gänsemarkt, 直訳すると「ガチョウ広場」)駅からU-Bahnに乗り、ハンブルク中央駅で南方へ向かうS-Bahnに乗り換えて、ヴィルヘルムスブルク駅に向かった。

 
写真17:ヴィルヘルムスブルク駅で降りてすぐに見えたこちらの斬新な建物は、
ハンブルク市政府の都市開発と環境政策を担当する当局Behörde für Stadtentwicklung und Umweltである。

ヴィルヘルムスブルクでは、IBA(Internationale Bauausstellung)のプロジェクトによって、環境への配慮をコンセプトに掲げて建設された実験的な住宅群を見学した。

 
写真18:「森の家」(WÄLDERHAUS)。こちらの家のテーマは森と木


写真19:「水の家」(WaterHouses)。
5棟の建物が池の中に浮かぶように建てられていた。他4棟は、この建物の後方にある。


写真20:"BIQ"。「藻の家」(Das Algenhaus, "Alge"は「藻」という意味である)とも呼ばれる。
バルコニーのガラスの表面がうす緑色になっているが、そこには微小な藻(Mikroalgen)が培養されている。
これらの藻がエネルギー発生源となるそうだ 。
 
午後には、ヴィルヘルムスブルク駅から電車に乗って南に1駅進んでハールブルク駅で下車し、ハールブルク地区のフェニックス・フィアテルを視察した。「フェニックス」という名称は、当地でゴム工場を経営していた会社フェニックス(Phoenix AG, 2004年にContiTech AGに併合)に由来する。フェニックス・フィアテルでは、住宅街を巡り、フェニックス社(現ContiTech AG)の稼働中のゴム工場、かつてのゴム工場の建物を改築して開館された美術館Sammlung Falkenberg、およびコミュニティーセンターBürgerzentrum Feuervogelを見学した。フェニックス・フィアテルは、労働者層の居住区域であるが、近年、ショッピングセンター、保育所やコミュニティーセンター等の公共施設が新たに建設され、再開発事業が進められている 。コミュニティーセンターは、地区の住民が集まる拠点としての機能を有し、地区の住民に対して、親子学級(Elternschule)、成人教育(Volkshochschule)、学童保育、余暇活動等、様々なサービスや文化活動の場を提供している。再開発事業は、住民の意見も聞き、住民とコミュニケーションを図りながら、住民も巻き込んで進めているという印象を受けた。

 
写真21:フェニックス・フィアテルに2004年9月にオープンしたショッピングセンター。
中は大変広く、数多くの店舗が入居している。


写真22:フェニックス・フィアテルの住宅街を進む。


写真23:古い部分と改修した部分が混じる建物が並んでいる。


写真24:美術館Sammlung Falckenberg(右側の建物)。
2007年に実業家のHarald Falckenberg氏が使われなくなったゴム工場の建物を買い取って改築し、2008年に現代美術の美術館として開館した。 


写真25:ゴム工場の敷地。美術館から眺める。

ハンブルクには史料調査のためにすでに何度も訪れている。だが、今回のエクスカーションでは、これまで足を踏み入れる機会がなかった場所を訪れることができ、都市の再開発が進み、未来へと向かって行く現状も目にすることができ、非常に充実したものとなった。エクスカーションを企画してくださった先生方および案内してくださったsteg社のRösner氏とReinken氏に感謝したい。

 
写真26:10月30日17時半頃、ハンブルクのアルスター湖西岸より。
尖塔は、左から聖ヤーコプ教会、聖ペテロ教会、市庁舎、聖ニコラウス教会である。


2014/11/19 14:00