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月度報告書(2014年11月度)原田亜希子

原田亜希子


10月31日が宗教改革記念日であることを、先月末のドイツ訪問にてプロテスタント圏の文化に触れ、初めて知ったが、ここイタリアでは10月31日は近年ハロウィンの文化が定着しつつある。そもそもハロウィンはキリスト教本来の習慣ではないが、カトリックはプロテスタントに比べてこのような民間行事に寛容である。実際ドイツ滞在時には街中で一切ハロウィンを思わせる飾りを目にすることはなかったが、イタリアでは10月半ばからハロウィン関連の商品が多くの店に並んでいた。またドイツから帰国した日がちょうど31日だったのだが、夕方空港から家へと向かう道では、仮装姿で街に繰り出す若者を多く目にした。特にイタリアの若者にとってハロウィンは音楽などと同じく「アメリカの大衆文化」の一つとして、イベント感覚で受容されているように感じる。この日の夜は遅くまで様々なイベントが街中では開催されていたようである。

しかし、夜が明けて11月1日になると、前日の騒ぎとは対照的にれっきとしたカトリックの祝日である諸聖人の日として各教会で荘厳なミサが行われた。今年はたまたま土曜日と重なったが、イタリアでは諸聖人の日は国民の祝日である。そして続く11月2日は「死者の日」として、日本のお盆のように多くの人がお墓参りに出かける日である。ボローニャではお墓参りの人のための臨時バスが運行され、市内の墓地での屋外ミサが行われていた。

今月は、派遣期間も残り少なくなってきたこと、そして先月のドイツにて新しく3月の目標ができたこともあり、指導教授のMuzzarelli先生、Mazzone先生と面談して、具体的に3月の発表の中身に関して指導していただいた。Muzzarelli先生は中世史専門ということもあり、近世専門の私とはテーマも異なるため、専門的なことというよりは主に史料の使用方法や方法論的なことに関して指導してくださった。Muzzarelli先生は時に厳しくもいつも親身になって相談にのってくださり、今回も1時間以上議論し、大変勉強になった。そしてMuzzarelli先生との面談でいただいたアドバイスをもとに、その後Mazzone先生には専門的なことを指導していただいた。Mazzone先生とは専門が近いこともあり、ピンポイントで様々なアドバイスをいただくことができた。なお今回いただいたアドバイスをもとに具体的な発表の構成を練り上げ、来月の面談時に両者に報告する予定である。

今月も文書館での史料調査を続けると同時に、歴史関連の講演会・学会に積極的に参加した。まずMuzzarelli先生主催のもと、フランスの中世ジェンダー史専門家であるDider Lett教授をお招きし、彼の著書『中世の男と女』イタリア語版の出版を記念して行われた関連イベントに参加した。中でもボローニャ大学大学院人文科学科(Scuola Superiore di Studi Umanistici)にて行われたジェンダー研究に関するセミナーは、イタリアでは珍しいことに英語で行われ、同学科に所属する多国籍の院生の方と知り合うきっかけにもなり、非常に興味深かった。


セミナーの様子、Lett教授と司会のMuzzarelli教授

またセミナーが行われたボローニャ大学大学院人文科学科があるマルケジーニ宮の赤の間は、1530年にボローニャにて行われた、神聖ローマ皇帝カール5世の戴冠式の様子が描かれたフレスコ画が残っている。

教皇クレメンス7世と皇帝カール5世によって行われたこの戴冠式は、皇帝がイタリアで挙げた最後の戴冠式であり、またローマ以外で戴冠式を行った唯一の事例でもある。また戴冠式だけではなく、戴冠式の数ヶ月前には、数年にわたる教皇と皇帝の交渉と協議の結果として「ボローニャの和約」が結ばれ、これによって近世イタリアのスペイン覇権体制の下での政治的枠組みが決定的なものとなった。舞台としてボローニャが選ばれた背景には、1527年のローマ劫略による痛手から立ち直っていないローマでは戴冠式を行うことができなかったことや、カール5世にとってもウィーン包囲やルター派への対応の必要からローマまで南下することができなかったこと、といった地理的要因や、戴冠式を負担する経済力があるという財政的要因が大きく影響したという。しかしいずれにせよ1529年の10月から約5ヶ月間教皇と皇帝がボローニャに滞在し、そしてそこで行われた一連のイベントはボローニャがヨーロッパの中心として機能したことの証明であり、特にProdiをはじめ2000年以降はボローニャ史におけるこの出来事を再評価する傾向にある。

マルケジーニ宮のフレスコ画は、天井下のフリーズ装飾として帯状に戴冠式の様子が描かれている。右側の壁には正面に向かってカール5世の入市式の様子、左側にはクレメンス7世の入市式の様子、そして正面には両者がサン・ペトロニオ教会に入る様子が描かれ、入り口上部には戴冠式の後のパレードの様子がうかがえる。Muzzarelli先生によると、この場所にこのフレスコ画が描かれた経緯などは現段階では分かっていないとのことだった。


カール5世の入市の様子


クレメンス7世の入市の様子


両者ともにサン・ペトロニオ教会に入る様子


戴冠式の後のパレードの様子

また今月は史料調査を行っているボローニャ国立文書館でも、文書館創立140周年を記念して大々的な学会が開催された。「われわれの前にある過去」と題したこの学会は、半日ずつ中世、近世、近代、現代の4つのセクションに分かれ、二日間にわたって行われた。どのセクションもその部門の大家の先生が担当され、私自身いつも研究書で名前を見ている先生方に実際にお会いする非常に貴重な機会となった。学会は現在の文書館の閲覧室の中で行われたが、普段は広く感じる閲覧室も、両日ともに多くの研究者が集まり、椅子が足りなくなる場面も見られた。

今年で140周年をむかえるボローニャ国立文書館は、イタリア統一後の1872年に出された条例によって、都市の遺産である文書史料の保存のために国立文書館を各地に設立しようとする行政的動きに、逸早く答える形で誕生したものである。そもそもボローニャ都市政府に関する史料の保存に関しては1288年の都市条例から規定が確認でき、もともとはPalazzo nuovo del Comune(現在のPalazzo Re Enzo)に保管されていたという(Camera degli atti史料)。その後も様々な場所に分散されていた史料が文書館の設立によって集められ、さらに現在の形に体系的に分類されたのは当時の文書館員Carlo Malagolaの功績である(なお、現在の場所に移転されたのは1940年に入ってからである)。

70年代に行われた彼の分類は、史料を時代別にコムーネ期(1116-1512)、教皇庁支配期(1512-1796)、それ以降(1796-、後にナポレオン期、それ以降とにさらに分割)とに分類する方法である。なおこの分類に関しては、便宜的な時代区分であり、特に1512年をひとつの節目と見る見方に対して近年否定的な意見も見られるが、現在でもボローニャ国立文書館の史料はこの分類のもとに整理されている。

さらに1981年からはこのようにして各地に設立された文書館を使用するためのガイドとして「イタリア国立文書館総合ガイド」が10年以上かけて順に出版されている。ガイドではアルファベット順にそれぞれの文書館が並べられているために、ボローニャは第一巻目と早い段階で出版されているが、現在もこのガイドがボローニャ国立文書館を使用する上では欠かせないものであり、私自身も今年ボローニャ文書館を使用する上でこのガイドの存在に大いに助けられた。学会ではボローニャのガイドを担当したTamba氏(中世担当)、Zanni Rosiello氏(近世以降担当)も出席され、実際にガイドを執筆する上での様々な困難や当時の様子が語られた。

さらに今回の学会の特徴は、これら文書館の生きた歴史を聞くことができただけでなく、すべての発表が文書館員と歴史家との共同で行われたことである。そのためそれぞれの史料に対するスタンスの違いが明らかになると同時に、これまでの共同作業の成果、そして今後の両分野におけるコラボレーションの可能性が浮き彫りとなり、非常に勉強になった。また学会では文書館の140年周年を祝い、過去の功績を振り返るだけでなく、最終日の現代セクションではこれからの文書館のあり方に対する課題が投げかけられた。特に熱い議論となったのがデジタル化の問題である。

そして最後を締めくくったZanni Rosiello氏が、その場にいた若手研究者・文書館員にかけた「文書館の未来とはこれまでの成果のコピーをとることなのだろうか?」という言葉が非常に印象的であった。同時に、会場にいた唯一の日本人として、日本からイタリア史を研究する意義といったものを漠然とではあるが、考えさせられた。すぐに答えが出るものではもちろんないが、今後イタリア史研究者としての道を歩んでいきたいと思うからには、こういったことも考えていければと思う。


閲覧室で行われた学会の様子(特別に許可をいただいて学会が始まる前に撮ったために人が少ないが、学会が始まる頃にはほぼすべての席が埋まっていた)

さらに月末には1週間、史料調査のためにローマを訪れた。今回のローマでは主に教皇庁関係の史料が多く残るヴァチカン教皇庁図書館、そしてローマ都市政府に関する近世の史料が残るローマ市立カピトリーノ文書館を中心に調査を行った。中でもヴァチカンの教皇庁図書館は、他の文書館とは異なる特殊な点が多い。

そもそもヴァチカンには教皇庁関連の史料が保存されている場所として、ヴァチカン教皇庁図書館(Biblioteca Apostolica Vaticana)、ヴァチカン教皇庁文書館(Archivio Segreto Vaticano)の二つの組織が存在する。なお、図書館といっても我々が普段想像する図書館ではなく、多くの手稿本を有する文書館である。またヴァチカン文書館に関しても、Segreto(ラテン語のSecretum)とあるために直訳すると機密文書館ではあるが、このSegretoはSecretaryから来た言葉であり、教皇に私的に属する文書を保存しているためにこのような名前がついている。そのために史料自体が秘密のものというわけではない。ただし現在閲覧できるのはピウス11世(1922-1939)の時代までのものであり、それ以降のものは公開されていない。

現在、ヴァチカン市国内にはサン・ピエトロ聖堂をはじめ、パスポートを見せることなく入ることができる。ただし図書館、文書館に行く際には、まずSant’Anna門からヴァチカンに入らなければならない。その際、初回は門の中にある守衛所にて訪問の目的を説明し、パスポートを預ける必要がある(2回目以降は文書館・図書館のカードを見せるだけでパスポートを預ける必要はない)。図書館、文書館の組織は独立しているが、同じ建物の向かって右と左にそれぞれの入り口がある。なお、ヴァチカン図書館はもともと15世期中庸に人文主義教皇ニコラウス5世によって教皇宮の中に設立されたものである。その後3回の増築を経ているものの、その場所は当時から変わっていない。そのために現在のヴァチカン美術館と隣接する形になっている。


Sant’Anna門の様子(右手奥に見えるのが守衛所)


右の扉がヴァチカン図書館入り口、左の扉がヴァチカン文書館入り口


ヴァチカン図書館入り口

ヴァチカン図書館、文書館ともに初回には所定の書類(所属する機関の証明書もしくは教授の推薦状、最終学歴証明書、パスポートコピー、証明写真)を持参し、さらに担当の方と面接をする必要がある。この面接を初回に受けた際には、口頭試問のようなものなのかと非常に緊張したことを覚えているが、実際にはテストというよりはむしろ史料の情報を紹介するなど、研究者が史料調査を円滑に行うための様々なアドバイスを与えてくれる場といった印象だった。

面接が終わるとカードが渡される。通常カードは1年間有効であるが、更新の際にはカードを提示しデータを更新するだけですむ。開館時間は文書館(月-土8時半から1時)、図書館(月-金08:45-17:45)とそれぞれ異なるが、どちらも7月半ばから9月半ばまで夏休みとして長期休館となる。また祝日もヴァチカン市国のカレンダーが採用されるために、イタリアの休日とは異なる。宗教的祭日はもちろんのこと、ラテラノ条約記念日として2月11日や、現教皇の洗礼名の聖人の日(現在の教皇の洗礼名はGiorgioのため、4月23日)も祝日になる。

なお、今回私が訪れたヴァチカン図書館は2007年から2010年にかけて大々的な改修作業を行ったために非常に機能的になっている。まず入館手続きからすべてがコンピューター管理されている。入り口にてカードを提示して入館手続きをし、ロッカールームではカードを所定の場所にかざすと番号が表示され、その番号のロッカーを使用することになる。ロッカーの開閉もすべて図書館のカードをかざすだけである。さらに閲覧室ではWi-fiが設備され、史料の請求もネット経由でできるようになっている。また史料のデジタル化も進んでおり、すでにネット上で見られる史料も増えてきている。また最近ではメーリングリストやツイッターを使用して、ヴァチカン図書館からの出版物や講演会、シンポジウムの情報を発信している。なお、図書館と文書館は別々の組織ではあるが、中庭は共有スペースであり、中にBarがあるために外に出ることなく休憩や軽い昼食をとることもできる。


ロッカールームの様子(機械にカードをかざすと使用するロッカーの番号が表示される)


ロッカールームの様子

なお、参考までに最後にSant’Anna門の中のヴァチカンの様子についても触れておきたい。ヴァチカン内部はひとつの国として様々な施設が存在している。特にヴァチカン郵便局はヴァチカン美術館やサン・ピエトロ広場にもあるが、イタリアの郵便局よりも日本への郵便物が早く届くといわれている。またヴァチカンの中にはスーパーや洋服店など様々なお店も存在する。ただしこれらのお店は残念ながらヴァチカン職員証がなければ買い物をすることはできない。とはいえ興味深いのは、ヴァチカン市国内ではイタリアの税金がかからないことである。イタリアでは通常内税であるためにスーパーで買い物をする際もどの程度消費税を払っているのかよく分からないことが多いが、ヴァチカンのスーパーの商品は消費税が含まれないために普通のスーパーよりも値段が若干安くなっている。

またヴァチカンならではの商品として、教皇の夏の別荘であるCastel Gandolfoにて飼育されている牛からとった教皇庁印の牛乳やヨーグルトも売られていた。さらにヴァチカン内部には薬局も存在する。ここもイタリアとは違うルートで薬が入ってくるために、アメリカの薬などイタリア国内では売っていない薬も多いという。なお、ここは職員証がなくても自由に買い物することができる。また特別な医薬品も処方箋を持っている人であれば誰でも買うことができるために、Sant’Anna門で処方箋を見せて内部に入る人も多い。実際私が薬局を訪れた際はいつも多くの人が並んでいた。


ヴァチカン郵便局


スーパーにて売られていた教皇庁印の牛乳とヨーグルト


教皇庁内の薬局の様子
2014/12/12 16:00