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月度報告書(2014年12月度)犬童芙紗

犬童芙紗

 
クリスマスが近づくと、町の至る所にクリスマスツリーが現れた。ツリーに飾られるオーナメントは、ボール、ろうそく、電飾、リボン等様々であるが、通り行く人びとの目を楽しませてくれたものである。

 
写真1:ビーレフェルト大学X棟のカフェテリアのクリスマスツリー。
オーナメントはグリーンに統一され、ライラック色の光でおしゃれに演出されている。
オーナメントのグリーンはビーレフェルト大学のカラーを意識したものであろう。


写真2:ビーレフェルト市内中心部Alter Marktの劇場前に飾られたクリスマスツリー。
赤いリボンと赤および銀色のオーナメント、さらに電飾により、きらびやかな雰囲気が出ている。


写真3:ビーレフェルト市庁舎前のクリスマスツリー。電飾のみでシンプルに、すっきりとまとまっている。


写真4: ビーレフェルト中央駅近くのロータリーWilly-Brandt-Platzに出現したクリスマスツリー。
春には赤白のチューリップ、夏には色とりどりの花々が咲いていたが、今やツリーがその場所を支配している。


写真5:筆者の滞在先のロビーに飾られていたクリスマスツリー。
暗闇の中、帰宅した時には、このクリスマスツリーの明るい光を見てほっとしたものである。

今月は13日土曜日に、アンゲリカ・エップレ教授のご自宅で、講座のメンバーの前で自分の研究プロジェクトについて報告する機会をいただいた。報告テーマは、"Musik und Wohltätigkeit: Die Singakademie in Hamburg im 19. und 20. Jahrhundert"。報告に際して、あらかじめ、これまでの研究内容と今後の研究の方向性についてまとめたテキストを、報告の数日前までに、エップレ教授と講座のメンバーに、メールに添付して送付した。当日の報告では、20分で研究内容と今後の方向性について簡単に述べた後、質疑応答を行った。また、エップレ教授の好意により、後でじっくりと考えることができるよう、それぞれのメンバーから筆記によるコメントや質問もいただくことができた。

報告では、まず、ハンブルク・ジングアカデミー(1819年設立)の慈善的側面について、ジングアカデミーが1835年から毎年、慈善目的を伴った公開演奏会を開催するようになった経緯、およびその演奏会から得た収益金の寄付先について、これまでの研究で明らかになった点について述べた。ジングアカデミーの演奏会の収益金の寄付先は、演奏会の都度、運営組織の会合において決定されたが、ほぼ固定されていた。その後、今後の研究構想として、ジングアカデミーと慈善組織との関係を中心に、19世紀から20世紀初頭のハンブルクにおける市民のネットワークとその変容について明らかにしたいという点について述べた。

講座のメンバーからは、ハンブルク・ジングアカデミーと他都市のジングアカデミーとの繋がり、ジングアカデミーに見られるハンブルクと他都市とのネットワーク、およびナショナリズムとの関わりといった、トランスローカルな観点に関する質問が出た。また、ジングアカデミーの活動および会員の間における「慈善」の重要性に関する質問も受け、当時のジングアカデミーのメンバー、すなわちハンブルク市民の間で「慈善」がどのような価値を持ち、彼らの生活や行動にどれほどの作用を及ぼしていたのか、ということについてもあらためて考察する必要性を認識させられた。特にエップレ教授からは、筆者自身の研究を通じて、市民的慈善活動に関して新たにどのような点を明らかにしたいのか、どのような学問的問いに答えることができるか、といった、研究の核心を突くような問いを投げかけられた。 

この日の会合では、筆者の研究報告の他にも、ドクトラントの一人によって提案されたアルゼンチンの政治理論家Ernesto Laclau(1935-2014)のテキスト講読やエップレ教授の講座の活動枠組みに関する議論が行われた。会合は16時に始まり、時折休憩を挟みながら20時頃まで続いた。その後、エップレ教授が用意してくださったパン、ハム、チーズ、サラダおよびメンバーが差し入れてくださった料理等で会食を行い、様々な話題で花を咲かせた。

さらに、今月は14日から21日にかけて、再びハンブルクの州立公文書館(Staatsarchiv Hamburg)に史料調査に赴いた。今回も、先月の続きとして、ハンブルク・ジングアカデミーと公開演奏会の収益金の主な寄付先となった慈善組織との関係を明らかにすべく、慈善組織側の史料調査を行った。

 
写真6:ハンブルク中央駅。駅の出入り口上方には、東方の三博士にイエス・キリストの誕生を知らせ、
ベツレヘムに導いたとされる「ベツレヘムの星」が見える。

また、19世紀ハンブルクの2つの主要な日刊新聞Hamburgischer Correspondent(1731-1934発行)とHamburger Nachrichten(1792-1939発行)において、ジングアカデミーの演奏会がどのように報じられているか、調査した。これらの2紙はマイクロフィルムで所蔵されている。

ハンブルク州立公文書館では、閲覧を希望する資料は、一次史料であれば閲覧室に置かれているカタログ(一部はこちらのサイトに掲載)あるいは閲覧室内のパソコンからアクセスできるscopeQueryのサイトで、二次資料であれば公文書館の公式サイトからアクセスできる資料検索サイトで資料番号を調べて、閲覧室の受付に注文するシステムになっている。マイクロフィルム化されている新聞は「741-4 Verfilmte Zeitungen」のカタログで、閲覧を希望する新聞名と発行年月日が含まれているフィルム番号を調べ、所定の注文用紙に番号を記入して注文する。フィルムを紙(A3)に出力する際には、1枚1ユーロかかる。紙への出力は、専用の印刷機で行うが、使用を希望する際には、希望日時を指定して予約する必要がある。

 
写真7:ハンブルク州立公文書館前の木々の葉はすっかりなくなっていた。

ハンブルクでも市庁舎前広場や繁華街の通りでクリスマスマーケットが開催されており、街はイルミネーションの輝きに溢れ、大勢の人びとでにぎわっていた。

 
写真8:クリスマスマーケットが開催されていた市庁舎前広場の様子。


写真9:ハンブルクの聖ペテロ教会の周囲にもクリスマスマーケットのスタンドが建ち並んでいた。

 
写真10:クリスマスマーケットのスタンドが建ち並ぶ繁華街の大通り

だが、街のきらびやかな雰囲気とは反対に、筆者のハンブルク滞在中は連日天気が悪く、雨の日が多かった。それでも、公文書館近くの大通りWandsbeker Marktstraßeには、時間の経過とともに色が移り変わって行く華やかな街灯が並んでおり、暗い街の雰囲気を明るくしてくれたものである。

 
写真11:朝9時半頃、街灯の光の色はマゼンタ。


写真12:別の日の朝、街灯の光は群青色であった。


写真13:夕方16時過ぎ頃、街灯は、青緑色に光っていた。


写真14:夕方18時過ぎ頃、雨で濡れた道に、街灯の青色の光が映っている。


写真15:夕方18時半頃、街灯は緑色に変わっていた。緑色の光が雨で濡れた道に反射されてきれいだった。

ところで、ハンブルクのクリスマスと言えば、アドヴェントクランツ(Adventskranz)に触れないわけにはいかない。アドヴェント(Advent)とは、待降節とも言われるが、キリスト教会の教会暦において、イエス・キリストの降誕を待ち、その準備をする期間のことである。それは、11月30日に最も近い日曜日からクリスマス前日までの約4週間続き、その間には日曜日が4回含まれる。アドヴェントクランツとは、モミやトウヒの枝を環状に編んだものに4本のロウソクを立てたものである。ロウソクは、待降節日曜日(Adventssonntag)ごとに1つずつ火が点されていく。待降節中の第一日曜日にまず1本だけ火を点し、その次の第二日曜日には2本目にも、さらに第三日曜日には3本目にも、そして最後の第四日曜日には4本全てのロウソクに火を点していくのである。日曜日ごとにロウソクに火を点しながら、12月25日のイエス・キリストの降誕を待つというわけだ。アドヴェントクランツは、多くの家庭や教会で飾られる。


写真16:こちらはビーレフェルトのクリスマスマーケットに売られていた家庭用のアドヴェントクランツ。
松ぼっくり、シナモン、ドライオレンジ、星、ボール等、様々なオーナメントでアレンジされている。

アドヴェントクランツを最初に考案したとされるのが、ハンブルクの神学者で、社会福祉事業に取り組んでいたヨハン・ヒーンリヒ・ヴィヒェルン(Johann Hinrich Wichern, 1808-1881)である。彼は、1833年にハンブルク市壁外東方に位置するホルン(Horn)という地区に、非行化した青少年の更正と教育を目的とした施設「ラウエス・ハウス」(Rauhes Haus)を設立する。そして、1839年12月1日の待降節第一日曜日、ヴィヒェルンはラウエス・ハウスの礼拝室の天井に24本のロウソクを立てた木の輪をつり下げ、24日のクリスマス・イヴまで毎日1本ずつ火を点していった。

ロウソクの本数は、その年の待降節の日数によって毎年異なり、2014年は11月30日に待降節第一日曜日を迎えたため、ロウソクの本数は全部で25本であった。その内、日曜日の4本のロウソクは白くて大きく、その他の曜日のロウソクは赤く小さい。これがヴィヒェルンによって考案されたアドヴェントクランツ、通称「ヴィヒェルン・クランツ」(Wichern-Kranz)である。1860年からは木の輪がモミの葉で包み込まれるようになる。彼が考案したアドヴェントクランツは、彼が提唱した教育理論と共に、ドイツ各地に広まって行った。アドヴェントクランツに立てるロウソクの数は、各地に広まって行く中で、日曜日のみの4本に減る。


写真17:ハンブルクの聖ミヒャエル教会には、天井から大きな「ヴィヒェルン・クランツ」が吊り下げられていた。

 
写真18:12月21日、待降節第四日曜日。聖ミヒャエル教会の「ヴィヒェルン・クランツ」は、
最後の白いロウソクが点灯し、22、23、24日分の赤いろうそく3本を残すのみとなった。


写真19:こちらは、ビーレフェルト聖ニコラウス教会のアドヴェントクランツ。
リースの上に立っているロウソクは、待降節日曜日分の白の4本のみ。

ところで、ビーレフェルトの気候についてだが、12月に入ると曇りや雨の日が多くなった。気温は現在のところ、氷点下まで下がることはあまりない。朝方氷点下まで下がったとしても、日中の気温は+5度くらいまで上がる。だが不思議なことに、気候への慣れのせいか、+1桁台の気温でも、日本の+1桁台の気温に比べれば、それほど寒さを感じない。雪が降ることは少ないそうだが、12月29日の朝、かなりまとまった量の雪が降った。しかし、日中の気温はプラスであったため、3日ほどですっかり溶けて消えてしまった。


写真20:12月29日8時過ぎ、明るくなり、外の様子が分かるようになると、辺り一面雪に覆われているのに気づいた。

大学はクリスマス期間中、ひっそりと静まり返っていた。というのも、12月23日18時から翌1月5日5時まで、エネルギー節約のために全館閉鎖されたからである。その期間中は、図書館も含め、建物の中には一切立ち入ることができない。


写真21:12月29日月曜日。平日であるにも関わらず、大学構内は閑散としていた。


写真22:Morgenbreede通りから大学メインビルディングの研究棟を眺める。人の気配が感じられない。
2015/01/13 15:00