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頭脳循環を加速する若手研究者戦略的海外派遣プログラム~EU枠内外におけるトランスローカルな都市ネットワークに基づく合同生活圏の再構築

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月度報告書(2015年1月度)中條健志

中條健志


1月1日にパリに到着し、本プログラムのもとでの研究活動を再開した。7日に市内で発生した、シャルリー・エブド社での襲撃を発端とする一連の事件は、国内外を問わず非常に大きなニュースとなったが、日常生活を送る上での支障はみられなかったように思う。警察や憲兵らの姿を頻繁に目にする以外は、街はいつも通り動いているように感じ、人通りも変わらなかった。事件からしばらくは、現地メディアの報道を集中して追いかけ、新聞・雑誌なども可能な限り入手した(写真1)。


写真1

自身の研究テーマと直接的なつながりはないが、ある出来事をめぐるメディアの反応とその変遷をリアルタイムで追いかけるという意味では、事件を通じて貴重な経験ができたのではないかと思う。11日に開催された行進には参加し、人びとが掲げる横断幕やプラカード、シュプレヒコールの内容などを記録した(写真2~4)。


写真2


写真3


写真4

受入教員のポーガム教授とは、3月25-26日に予定されている共同研究会の準備にかんして話し合いを進めた。今後は、当日の運営についてさらに議論を重ねていく予定である。また、報告者自身の発表原稿を同僚らの協力を得ながら執筆した。次月には、通訳や発表時間といった事情を踏まえ、原稿を完成させたい。

参加した主な行事は次のとおりである。
3日は、パリ市東郊のバニョレへ行き、サン=パピエ支援団体バラス(Baras)の関係者へのインタビューをおこなった。同団体の主な活動の一つは、滞在許可証申請中の移民が「不法滞在」を理由に逮捕された場合、行政側にどのような異議申し立てが可能なのかを彼(女)らに教えることである。また、極右活動家による無許可の外国人露天商への嫌がらせ――商品を踏みつぶすなど――にたいするカウンターもおこなっている。同団体主催の映画上映会にも参加し、モロッコにあるスペインの飛び領メリリャにおかれた分離壁周辺(モロッコ側)に住む、サブサハラ系移民を描いたドキュメンタリー『The Land between』(2013年)を鑑賞した(写真5)。近年激化している、EUの支援を受けたモロッコ軍による、ヨーロッパへの移住を試みる人びとにたいする弾圧を告発する作品である。


写真5

5日は南郊のアルクイユで開催された、アルクイユ人民大学でのエリック・ファサン氏(パリ第8大学・社会学)の講演に参加した(写真6)。「ロマ問題」がテーマとなり、政治家やメディアによってロマの「人種」化がどのようになされ、「彼(女)ら」と「われわれ」の「差異」がどのように強調されてきたのかが論じられた。「移民問題」との大きな違いは、国家的な問題ではなく、ローカルな事件――○○市の衛生問題、治安問題――として語られる点である。一方でそうした「事件」は全国的に報道されるため、それまでとくに問題のなかった現地住民の不安が煽られ、ロマの排除(居住地からの強制退去)が正当化される。2013年、リヨン市長のジェラール・コロンブは、ひとりの子どもが餓死した事件をうけて「リヨンで死ぬよりも、出身国のより良い環境のなかで生きられるようにしたほうが彼らにとって良い」と発言し、ロマの排除を訴えたという。


写真6

18日には、昨年9月に訪問したデュドゥランジュ市(ルクセンブルク)の移住資料センターを再訪し、「ルクセンブルクのポルトガル人」をテーマとした研究会に参加した(写真7)。そこでは、ルクセンブルク大学の現代ヨーロッパ史修士課程、「移動するヨーロッパ人」ゼミの院生8人による報告がおこなわれた。起業、教育、女性、スポーツ、料理など、関心は様ざまであったが、なかでも、政治家やメディアによる「統合」の語られ方の変遷を分析した発表が興味深かった。「難なく統合したイタリア人と比べ、後から来たポルトガル人たちは…」といった言説がどのようにつくられてきたか。また、それまでゼノフォビアの対象だったイタリア人が、ポルトガル移民流入期から突然「理想化」されたプロセスが明らかにされた。もっとも最近の動きとしては、旧ユーゴ圏からの移民が「ポルトガル人と比べ…」の対象になっているという。移民をめぐるこうした「昔は良かった」的な言説は、他の地域でもしばしば観察される現象である。


写真7

20日は、北郊のオーベルヴィリエでの「1961年10月17日広場」落成式に参加した(写真8)。独立を求めてパリでデモをおこなったアルジェリア人たちが弾圧された「1961年10月17日」は、長らくフランス史のなかで公に語られてこなかったが、2012年に大統領のオランドが公式に謝罪をし、政府側の犯罪として認められた事件である。昨年、オーベルヴィリエ市議会は、追悼と記憶を目的とした広場の建設を全会一致で決定した。事件はパリ市やその郊外で発生したが、その中でオーベルヴィリエが選ばれたのには理由がある。事件当日、警察によってセーヌ河に投げ込まれた人々が溺死したが、広場の横を流れるサン=ドニ運河もその惨劇の舞台であった。3万人のデモ参加者のうち1万人が逮捕され、約100人(諸説ある)が死亡したといわれている。落成式では市長による演説がおこなわれ、政府によってなされた犯罪があらためて告発された。


写真8
2015/04/08 12:00