TOP |  Pre-Session |  Session1 |  Session2 |  Session3 |  プロフィール
個々の映像実践を「アーカイブ」という観点から捉え直 すと、撮影は映像素材化を通じた諸事象を「あつめる」 であり、素材の資料化、保存、作品化、上映らは「ならべ かえ」による新たな価値創造といえる。また、被調査者 や社会との関係を考慮した場合、「ひらく」という問題 がある。これらを前提とし、前半は、文理 両視点から、 対象がサル、ヒト、人間にまたがる学問分野における映 像素材の資料・分析・表現的活用、映像ならではの文理 ・学際的研究の可能性(「人」研究の可能性)、実験的な 映像上映による「作品」概念らを検討する。後半は、映 像作品の制作過程開示と上映を通じて、研究上の作品制 作の諸問題と意義について考える。
コーディネーター:新井一寛[大阪市立大学]
2月22日(金)13:00〜19:30
司会:分藤大翼 [京都大学]

13:00〜
趣旨説明:新井一寛[大阪市立大学]
発表・上映:

島田将喜 [日本学術振興会]
「一エソロジストの映像活用
-『生き生きとした』サルの遊びをそのまま理解する試み-」

Ethologyにおいて、映像は二つの異なる目的を達成するための手段として利用されう る。一つは解析目的であり、行動の分析や観察の客観性を高める手段として利用され る。もう一つは公表目的であり、第三者に対して研究対象のイメージを伝える手段と して利用される。理想的には二つの目的に適う映像を得るためには、それぞれ異なる 撮影手法が要求されるはずだが、実際には大半のエソロジストは同一の手法で撮影し た映像を、目的に応じて切り分けたり、使い分けたりして対処していると考えられる 。どちらの目的も自分の研究の一環として切り離せないという認識は、私の対象に向 かう態度やフィールドワークのあり方そのものを大きく変化させた。本発表では私の 研究対象であるニホンザルのコドモの遊びと、それに対する私自身の理解がどのよう に変化してきたかを一例として、エソロジーにおける映像利用の可能性について検討 する。


相馬貴代 [京都大学]
「霊長類学者の目と人類学者の眼線」
発表者はマダガスカル南部において、キツネザルの生態を継続調査してきた。長期調 査の中で、記述的なデータの採集のほかに、動物行動の記録としてビデオ撮影を行っ てきた。動物の生態調査において、映像での記録は彼らの行動を視聴者に的確に伝え ることができる。特に、動物の特異的行動の映像は、時には記述された記録よりもは るかに雄弁にその行動を語ると言えよう。そして霊長類としての「ヒトの行動」も同 様なことがあてはまるのかもしれない。キツネザルの行動の映像を、折に触れて撮影 してきた、調査地に居住するアンタンドロイ族の暮らしや儀礼とともに提示すること によって、ヒトを対象とした場合と、サルを対象とした場合、映像活用の相違・類似 点はどのようなものなのか、霊長類学者の視点から検討してみたい。


内藤真帆 [京都大学]
「言語学における映像活用」
従来、言語学とりわけ記述言語学の分野では、調査の際に調査協力者の発話を紙と鉛筆 (ペン)、そして録音機で記録する手法が用いられてきた。しかし近年では、こうした 文字データと音声データに加え、映像データの収集も積極的に行われるようになってい る。言語学における映像活用の有効性としては、次の二点が挙げられる。1.大言語の影 響にさらされている少数言語の希少音や音変化などを、克明に記録しうるという資料的 価値、そして2.希少音の発音時に唇や舌がどのように動くかを、視覚的に実証・分析す るための分析的価値である。このような言語学における映像活用の可能性について、本 発表ではヴァヌアツ共和国の少数言語「ツツバ語」の映像をもとに、資料的側面と分析 的側面の両面から論じる。


古川優貴 [一橋大学]
「映像プレゼンテーションに関する試論」
 我々は映像を鑑賞するとき既に学習したやり方でしかそれを見ることができない。例 えば、http://www.youtube.com/watch?v=Iw9OARpp-KIの場合、痩せ細った子供や 疲労の色を浮かべる母親の顔を見ることはできても、女性達の服の色の鮮やかさを見る ことは難しい。このケースでは、異なる視点が提供された上で改めて見ると、従来とは 違う観点から「飢え」について再考することができるかもしれない。映像作品を作り上 映するのは、伝えたい何かがあるからである。その何かを鑑賞者に伝えるためには、作 品上映を含むどのような新しいプレゼンテーションのあり方が必要なのか。また、制作 者が意図しなかった観点(作品に対してのみならず世界に対する新しい視座)が逆に鑑賞 者から提供され、それを更に盛り込む映像実践はどのように可能であるか。本発表は、 こうした問題意識を前提としており、とりわけ上映前のオリエンテーションとそれに引 き続く上映、上映後の鑑賞者の反応に照明を当てる。
上映:『rhythm』10min/ケニア、youtube/2007/古川優貴
「人」と動物の共通性/差異性とは?このことを、本作品を通じて考えたい。ケニア寄宿制プライマリ聾学校で制作者自らが撮影した素材を使用すると共に、YouTubeサイトにある素材をカット・アンド・ペーストして制作した。



岩谷洋史 [神戸学院大学]
「映像とテクノロジーの発展
-「作品」概念の再考と見る者の「視点」を許容するアーカイブ-」

本発表は、デジタルアーカイブ批判と将来の可能性に関するものである。「映像作品 (映画)」というのは、やはり「近代」の産物だと思われる。それは、もしかすると、 文字媒体による「作品」よりも「近代的」なのではないであろうか。「作品」を制作す るということは、とくに「映像」の場合、究極の意味で、近代的な考えを助長するもの ではないだろうか。発表者は、フーコーを想定しているのだが、それらをデジタルアー カイブ化するという発想もその延長にあると思われる。しかし、近年、そうした流れが 変わりつつある。その主な要因はコンピューターテクノロジーの急速な発展である。そ れによって、一言でいうならば、映像の「作品性」というのは近年、あまり意味をもた なくなってきているし、もたなくなっていく可能性があるということである。


新井一寛 [大阪市立大学]
「『同居とカメラ』と「作品」概念
-撮影・編集・上映における「人」とのコミュニケーションの考察を通じて-」

本発表では、『同居とカメラ』が含む問題群について概略的な説明を行う。特に、撮影 者と被撮影者が、日常生活に舞い込んできた(埋め込ませた)撮影・編集・上映によるコ ミュニケーションを通じて映像作品を制作することの意義と問題点について述べる。ま た、そこでの両者および両者の関係性(「現実」)と映像実践との相互反照的かつ相互 侵食的な変容過程についても述べる。さらに、同作品は、上映と同作品に関する議論、 それに対する被撮影者の反応なども作品に取り込んでいく「終わりなき」映像作品の手 法を採用しており、その意義についても述べる。撮影者の思いつきとそれに応じた被撮 影者の日常生活における「ミクロ」なやりとりが、学術的な場でどのように装飾され、 そこでの軌道修正を含めて映像作品として加工され、研究上意義のあるものとして、 「マクロ」な理論生成空間に参与するのであろうか。『同居とカメラ』には様々な問題 群が、「映像作品」特有の「文法」論理・構成のなかで同居している。
上映:『同居とカメラ』38min/日本/2007-/新井一寛
同居人を、学会の上映会に作品を投稿する目的で、撮影し始める。 通常作品に含まれることの少ない「出演依頼交渉」の現場から作品を開始し ている。


コメント:木村大治[京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科准教授]
質疑応答

※※※休憩10分※※※


16:50(予定)〜
発表・上映:

笹谷遼平 [同志社大学]
「『昭和聖地巡礼-秘法館の胎内-』の制作過程
-アカデミズムとエロティシズムのはざまで-」
史上初の秘宝館のドキュメンタリー映画『昭和聖地巡礼-秘宝館の胎内-』(2007年8月 DVD発売)の制作秘話を監督笹谷遼平自らが語る。そのほとんどが、あまり人に知られ たくない恥ずかしい部分ではあるが、企画が生まれDVDとしてアウトプットされるま での15ヶ月を赤裸々に語る。まず20分の中編映画『日本全国秘宝館祭り』からの出 発。そして映画の核とも言える元祖国際秘宝館の取材拒否、その理由。それを発端にし た、映画のアカデミズム的発展にともなうエロティシズムの減少。そうしないと取材が 受け入れられなかった事実。アカデミズムがいかに世間から信用を得ているか。結果と して、アカデミズムとエロティシズムは調和しなかった。それを『昭和聖地巡礼-秘宝 館の胎内-』内の映像を通して検証する。エロスを謳歌した秘宝館の映画は、果たして エロいのか、それともアカデミズムがその輝きを抑制しているのか。 どの程度から「映像資料」は「映画」に成り得るのか。その答えを探したい。
上映:『昭和聖地巡礼-秘宝館の胎内-:特別編集版』15min/日本/2007/笹谷遼平
昭和のエロカルチャーの代名詞ともいえる秘宝館。しかし現代に消えつつある秘宝館。 秘宝館とは一体何なのかという問いをテーマにしたドキュメンタリー。 本来の作品は70分。



Renato Rivera Rusca [京都大学]
「『Notes from Abroad』の制作軌跡に見る「映像社会学研究」のあり方」
本発表では、自作『Notes from Abroad』の制作軌跡について考察することを通じて 社会学分野における映像活用の有効性と問題点について述べる。その際、当該分野にお ける「作品」制作に注目し、企画段階から、撮影、選択されたカット(映像素材)の組み 合わせ、「作品」が出来上がるまでの作業を巡る諸問題を考察する。特に、撮影によっ て創出された映像素材を並び替えるという編集段階の様々なジレンマ、映像作品として の完成度、研究の成果、被写体の希望、情報の信頼性らを、全て兼ね備えることの困難 性などについて述べる。これによって、作品内容の検討の他に、社会学研究としての映 像作品における「事実」と「意図」についての問題提起ができると考えている。
上映:『Notes from Abroad:特別編集版』
20min/日本,アメリカ/2007/Renato Rivera Rusca/日本語字幕
インディペンデント・ミュージシャンである、ケーシー・ランキンと飯島真理のインタビューやライブ映像に より構成された作品で、国内外の音楽シーンをテーマにしたドキュメンタリー。



川瀬慈 [日本学術振興会]
「人類学映画における演出とインプロヴィゼーション」
人類学映画の系譜において、 エスノ・フィクションと呼ばれる映画の制作方法論が ある。人類学者がカメラの前のインフォーマントに、彼らの日常の生活実践に関す る寸劇を"半"即興的に演じさせるのである。 古くはルーシュ("La Pyramide Humaine"1959, "Jaguar" 1967 )、近年ではシ ョウバーグ(" Transfiction" 2007)等によって実験的に試されてきたこの手法は 、文化事象の"客観的"な観察・記録に重点を置くObservational Cinema の対極に追 いやられ、深く議論・探求されてきたとは言い難い。本発表においては、 エスノ・ フィクションの従来の方法論を批判的に吟味しつつ、人類学映画の制作現場におけ る演出とインプロヴィゼーションの意義に関して私自身の制作の立場をふまえて考 察する。そしてこの方法論の再考が、人類学者・インフォーマント間のインタラク ティブかつ建設的な対話の証拠としての映画のあり方を模索するうえで可能性を持 つことを示したい。
上映:『Room 11, Ethiopia Hotel』23min/Ethiopia/2006/川瀬慈/日本語字幕
本作は、エチオピアのストリートキッズの少年2人と撮影者である私との対話から生起 する物語に焦点をあわせたものである。



須藤義人 [沖縄大学]
「記憶すること・記録すること
-映像民俗誌を記録する批判的視点と制作実践のはざまで-」

民俗誌とは、「語られる言葉」に依存し、人の記憶を引き出す手段である。「語られる 言葉」とは、人々のなかに記憶の形をとって存在するものの表出であり、それを聞き取 って記述形式に資料化したものであると言える。「聞き取り」という記録作業だけでな く、聴覚に依存する音楽活動、視覚化しうる身体活動(芸能・型)などを、文字化して 言葉で伝達するには、それ相応の文学的な才能が必要となる。本田安次や早川孝太郎は その点で、民俗芸能を記述化して描写する能力に長けていたと言えよう。映像記録とい う方法以外では、採譜やラバノーテーションなどの手段によって、無形の記憶を記号化 して再現することは一部実現している。民俗学的な研究において、映像記録の有効性が 高いとされる理由は、資料媒体としての再現力、復元力に拠るところが大きいと言える 。では、映像民俗誌としての記録映像を制作する上で、地域共同体の中で有効に活用し てゆくには、どのような立場に立脚すべきであろうか。記録者の現地での関わり方とし て、消滅・埋没する記憶を記録化するという姿勢、共同体再生のために記録化するとい う姿勢について触れてゆきたい。
上映:『フチのこころ-アイヌの女の手仕事』36min/日本/2006/須藤義人
北海道浦河地方のアイヌとして生きる遠山サキさん。彼女自身によって、その波乱に満 ちたライフヒストリーが語られてゆく。故・浦河タレさんより受け継いだ手仕事や ウポポ、踊りを、次世代へとつなぐ姿を記録した。


コメント:八角聡仁[京都造形芸術大学・舞台芸術研究センター教授]
質疑応答
全体討論